■議論の整理
高大接続改革を受けて、国語の教科指導は変わりつつある。通常現代文Bで教えられてきた、文学作品は論理国語と文学国語に変更され、私たちが高校の国語の授業で教わってきた芥川龍之介や中島敦、夏目漱石らの文学は、文学国語で教えられることになるだろう。しかし文学国語は必修科目として採用されているわけではおらず、どちらも4単位ものである論理国語と文学国語であれば、論理国語が採用されそうな気配に合って、文学作品を読むことは縁遠くなることが予想されていることが気がかりだ。
■問題発見
ひるがえって、教室で文学作品を読むことは、生徒の多様な読書行為を一つに収れんさせてしまいかねない危うい行為でもある。生徒の頭の中は多様な物語を紡いでいるにもかかわらず、教室で教えられる読解行為は単一の物になることが多い。これは何かを教えるという行為に付きまとう困難と同義だが、一方で教科書自体が一つの限定を設けている場合、もう一度文学を国語の授業の中で読むことを考え直してみる必要がより高まるだろう。その作品とは夏目漱石の『こころ』という作品だ。
■論証
高校二年生から三年生にかけて授業で教わることの多いこの教材は、長編小説であるため、全文を掲載することは非常に難しい側面があり、中でも先生の遺書である、「下 先生の遺書」の一部を掲載することで授業教材として使用されてきた。このことに対する批判は昔からあり、文学を教室で読むこと、ひいては限定された小説を読ませることの弊害が多く語られてきたのであった※1。
■結論
このことをいち早く批判し、有意義な論争を起こすきっかけになったのは小森陽一の論文だった。小森は、語りの複数性・多層性に注目し、過去を語る先生や、それを読み、さらに語る「私」などの複数性の中で、先生の物語を読み替えて行こうとする主体的な「私」のありさまを指摘している。
■結論の吟味
しかし、この「私」の語りは、上・中を読まなければ見えてこないものだ。下だけを見ることは、ある種先生の人生を美化する結論しかもたらさず、友情と恋愛の中で苦しむエゴイスティックな先生の有様を道徳的に甘受することを強要する。しかしこの物語がそれにとどまらないことを上の私は高らかに宣言するのだし、そのテクストの読解の複数性や他者性を読み解くことが豊かさを味わうことにつながると私は考える。このような文学指導ができるように、貴学に入学し、研究したみたい。
※1五味渕典嗣「『こころ』を読む困難 テクストとしての教材本文」『大妻国文』47 2016
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