■ 議論の整理・・・
太平洋戦争末期の昭和20年8月,ソ連は日ソ中立条約を破棄し,満州国に侵攻した。圧倒的な戦力を前に,関東軍の大半の部隊が激しい戦闘をすることもなく8月15日の終戦を迎えた。武装解除された日本軍将兵や民間人はソ連によって捕らえられ,57万を超える人々が各地の収容所に送られた。当時ソ連は,ドイツとの戦争で国土が疲弊し,深刻な労働力不足に直面していた。スターリンは,抑留者の強制労働によって豊富な資源が眠るシベリアの開発を推し進め,国力回復の足がかりにしようとした。冬には氷点下30度を下回るシベリアで,抑留者たちは森林伐採や炭坑作業など過酷な労働を強いられ,少なくとも5万5千人が命を落とした。
■ 問題発見・・・
貴学総合政策学部の小熊英二教授は,シベリア帰還兵だった実父・謙二氏の生涯を著書『生きて帰ってきた男』に記している。その生涯を通じて見えてくる戦中,戦後とはどんなものだったのか。
■ 論証・・・
その著書の中で謙二氏は,「自分が生き残れたのには,二つの理由がある。一つは,混成部隊に入れられて,収容所での階級差別がなかったこと,もう一つは,収容所の体制改善が早かったことだ。自分がいた収容所は,方面軍司令部があったチタの街中にあったから,改善が及ぶのが早かったと思う。」(p.132)と述べている。また戦後の生活についても「……政治に関心がなかったわけではないが,とにかく余裕がなかった。内閣がどう交代しようと,まったく上のほうの話で,自分の生活には関係ないと思っていた。」(p.204),「公的機関にネットワークを持たない貧困者は,生活にも時間にも余裕がなく,制度があっても情報を得られないことが多かった。」(p.219)とも述べている。このように,シベリア収容所時代の,厳しいながらもほんの少しの幸運により無事帰還できたことや戦後の日本においても生活環境などによって,診療所への入所や生活保護などの諸制度を知ることすら叶わぬ人々がいた事実が,生きた言葉として伝えられていることは,我々にとって非常に意義のあることと考える。
■ 結論・・・
そこで,戦争のみならず,災害や事件,事故などに遭った人たちの「生きた声」を集めて後世に伝え残すための方法論について研究を深めたいと考えている。
■ 結論の吟味・・・
この研究を進めるため,貴学SFCに入学し,『生きて帰ってきた男』の著者にして戦後日本史や社会学について数多くの研究実績がある小熊英二教授の研究会に入会することを強く希望する。
(*1) 小熊英二.“生きて帰ってきた男 ある日本兵の戦争と戦後”,岩波書店,2015
コメントを残す