- 議論の整理・・・
我々は時間の中で生活している。それはつまり、我々の行為が構築された社会の中における行為であるとするならば、それらの行為には時系列のみでなく、時間によってその行為が説明されるということである。しかし、このことから、行為において説明されるのが時間であるのならば、時間の中ではなく、行為を対象として時間が生成されるとも考えることが可能である。
- 問題発見・・・
では、時間について社会学からどのように分析することができるだろうか。
- 論証・・・
私はこれらの問題を解決するためには、社会的事象を対象に取った場合の時間の概念に対する知識を前提とし、それらがどの様に認識し得るかを考察することが重要であると考える。たとえば、社会学の専門家である周藤真也教授は分裂病者Sに取材し、身体は時間と社会を負うものであり、少なくとも原初的には身体そのものが時間であり社会であり、身体は時間と社会を生成する源泉となっていたのであった。だが、身体が時間と社会の生成する源泉であり、 Sの世界において Sが自らの身体を用いて現に時間と社会を生成していたとしても、 Sの世界において身体は存在していないというのも事実である。なぜなら、 Sの世界と Sの存在とが一致していたように、 Sの身体は Sの世界と一致するのであり、全てが Sであり、 Sの身体であるならば、 Sは決して自らの身体を知覚することはない。つまり、 Sの世界=身体は、時間、社会を生成しながら、身体の不在をもたらしていたのである。と発表している。[1]
- 結論・・・
そこで、社会における時間について、時間の根源を専門的に研究するため、社会学について専門的知識に富む貴学社会科学部の周藤真也教授の下で、上述の問題点を整理するべく社会的事象における時間について研究を深めたいと考えている。
貴学社会科学部の周藤真也研究会が上述の研究を進めるのに最適な研究環境との確信のもと、貴学社会科学部に入学し周藤真也研究会に入会することを強く希望する。
[1]周藤真也著『時間の生成・社会の生成 : <身体>という根源へ』(1996-02)
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