早稲田大学 文学部 AO入試 志望理由書 提出例(草柳千早ゼミ向け)

■議論の整理

近代は身体を操作する知であふれている。前近代であれば、身体は奴隷の身体となり、王の身体に対して、物理的な身体を抑圧する見える主体=権力者がいた。しかし近代に入れば、人権が叫ばれる中、身体を直接的ではなく、間接的にかつ巧妙に身体を操作するテクノロジーが発展してきたと言ってよい。

 

■問題発見

私たちは、子どもを産み育てるという再生産のための身体として使用させられ、学校や病院、もしくは監獄において、身体を馴致させられる。その際、主権者は暴君のような目に見える主体ではなく、不可視の法であり、常識であり、自分の良心である。私たちは自身の身体を自分で放棄し、飼いならすことを強いられ、いつのまにかその法を内面化し、その権力への呼びかけに応えてしまう。では、本来あるはずの私たちの身体はどこへいってしまったのか。

 

■論証

このような議論を繰り広げたのは、『監獄の誕生』を描いたミシェル・フーコーだが、古くはマルクスの『資本論』にまでさかのぼって現代の状況を説明することが可能だろう。マルクスは、身体が労働主体になり、その労働主体が資本主義によって搾取されるさまを描いた。身体はこの意味で、資本家のものであり、法にたいして従属している状況と相同形を為している。

 

■結論

とすると身体は本当に、私たちの手元にないのだろうか。近年「からだの声をきく」言説が盛んであり、その現象を分析した草柳千早※1は論文で、身体を抑圧しようとする権力に対してのアンチテーゼとして、本来自然のままに会った身体の声を聴くという言説が抑圧の回帰として浮上している様を描いている。わたしたちの身体は、わたしたちの手元にあり、そのまま見えないだけであった身体が今、身体だけをよりどころにして、悲鳴を上げている。これは一種の抵抗の形式として存在している。

 

■結論の吟味

さらに議論を進めてみよう。この「からだの声をきく」言説が、法の言葉の中にそもそも織り込み済みであった場合、どうなるか。「からだの声をきく」ことが、抵抗の形式ではなく、新たな馴致への一歩であったとしたら。私たちはからだの声をきいて、新しい実践を始めようとするが、その実践は新たな経済活動を行うことであり、新たな振り向きに答えようとする行為かもしれない。身体は大切だよ。休めなくては。という言説はすでに憲法に端を発して私たちのもとに文化権を保証している。そうなると、本当に私たちの身体はどこへいったのか。このような身体をめぐる言説分析や社会学的考察を行ってみたいと考え、貴学への入学を希望する。

 

※1草柳千早「身体と社会秩序――「からだの声をきく」言説からみる――」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』63 2018

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