- 議論の整理・・・
談話において、言語は存在を指し示すが本質を指し示すものではない。それらの指し示す対象を指し示すのみであってそれらは使用者によって指し示されるがそれはその語の対象として存在しており、それはその語によって指し示された存在の本質を表すものではない。それは各言語がコミュニケーションにおけるツールとして存在する以上、話し手と聞き手の共犯関係において成立する。その与えられた場でのみ対象を取ることが可能であって、存在に対しての表現を行うことは不可能である。
- 問題発見・・・
では、存在について社会言語学からどのように分析することができるだろうか。
- 論証・・・
私はこれらの問題を解決するためには、言語に対する知識を前提とし、それらが、社会においてどの様な表現として介入しているのかを考察することが重要であると考える。たとえば、社会学の専門家である周藤真也教授は私の存在は、単独の私によって指し示すことはできない。私の存在というのは、何者かからの指し示しによるものである。これが承認の問題である。この問題にかかわるパラドックスを「存在の逆説」と呼んでおくことにする 。第二に、存在を指し示すために使用するものが「言葉」であり、言葉によって指し示すことを「記述」と呼ぶとすれば、存在はそのモノの存在それのみによって、記述することはできない。言い換えれば、言葉は、その言葉によって指し示されるところの存在物そのものではない。例えば「犬」という言葉は、その言葉によって示される犬そのものではない。これが拒絶の問題である。この問題にかかわるパラドックスを「言語の逆説」と呼んでおくことにする。と述べている[1]
- 結論・・・
そこで、社会学における存在について、言葉の意味と指し示すものを専門的に研究するため、社会学について専門的知識に富む貴学社会科学部の周藤真也教授の下で、上述の問題点を整理するべく社会言語学について研究を深めたいと考えている。
貴学社会科学部の周藤真也研究会が上述の研究を進めるのに最適な研究環境との確信のもと、貴学社会科学部に入学し周藤真也研究会に入会することを強く希望する。
[1]周藤真也著『存在の逆説/言語の逆説─〈社会性〉の始原─』(2012年7月)
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