■議論の整理
アレクサンドル・ポノマリョフの作品を鑑賞することは、水のような変化を体感することでもある。南極大陸への愛を語り、常に水辺、海辺で作品を発表してきた彼の作品は、水のようにいかなる世界も声、地球を共同体としてつながる可能性に満ちている※1。
■問題発見
芸術は国境を越えているだろうか。芸術家は、その伝統的な枠組みから常に自由でいられるわけではなく、彼らが所属する共同体や文化の中に身を置いている。そもそもどのような人もそのような共同体から自由であるわけではないが、一方で宮廷画家のように、もしくは宗教画家のように、芸術家が生きていくためには、自分の描いたものが、共同体の中でどのように位置づくかをなかば想定しながら書いていることに変わりはないのかもしれない。
■論証
現代美術は、従来のこれらの封建的な制度ともにあった芸術群よりもいくぶんか国境は超えている。グローバリゼーションただなかの現在、市場は自由だ。でも芸術はいつも何かに縛られている。それは計座だと言って差し支えないだろう。『芸術起業論』を書いた村上隆はその意味で、もっとも芸術と経済について敏感な人物の一人だろう。芸術は経済とともに生きなければいけない。それは死活問題である。
■結論
私たちはどこで自由になれるか、という哲学めいた言葉を発してもどうにもならないことを承知で、それでもポノマリョフは、「いや南極がある」といっているかのように私には見える。自由を模して、海を描き、そしてかなたまで広がる空を描いた作品は無数にあるが、実はそこには目に見えない分割線、領海や領空がひろがっていなかったか。そしてその海は、経済水域に指定され、その海でとれる資源は経済を回し、国力の礎になっている。空は空軍の物だ。私たちは、ミサイルがいつか空から降ってこないか、そんな対象としていつしか見上げてしまっている。
■結論の吟味
観念としての自由と言う意味ではなく、現実的に自由な場所で、政治的にも自由に自由を表現するポノマリョフの活動は、これからも私たちの政治的な不自由さと、経済的な不自由さから逃れていくだろう。そこに果てにある者が地球の平和であることを祈って、私も彼の活動を注視していきたい。上記のような研究をしてみたいと考え、貴学への入学を希望する。
※1鴻野わか菜「海と空の間で――アレクサンドル・ポノマリョフ」『千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書』299 2016
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