■議論の整理
中学校でダンスが必修になった。ダンスはリズに乗せて身体を躍動させるため、運動神経の発達に優れ、脳機能の発達に役立ち、情緒も芽生えさせるという点で非常に優れた科目だと言える。そのダンスは、一方で文化的な文脈でどのようにとらえられるだろうか。
■問題発見
1990年にタブリンのアベイ座で公開された『ルナサの踊り』は、ブライアン・フリールの劇作品の中でももっとも知られたもので、その後映画化もされている。その物語は自伝的な要素も含みながら、ダンスによって人間性が解放された秀逸な作品である※1。
■論証
論者は、このダンスをデュオニソス的だと評しているが、アフリカの地元民の土俗的な宗教とともに一度は見下していたはずの主人公までもが自身を解放しているさまが描写されている。彼らが躍るのはジャズダンスであり、ジャズはアメリカに奴隷として連れてこられたアフリカ人の音楽が震源だ。それでもそのダンスにのってしまう身体は、生命の躍動を伝染させてしまう。
■結論
観念や規制、私たちの中に無意識に入り込むイデオロギーは、身体の躍動を止めることができない。身体はいつのまにかリズムを刻み、抑え込まれたものを解放してしまう。デュオニソスは踊りの神だ。私たちの身体にはいつも生命をたたえる身体の躍動が刻み込まれ、そこに反応してしまうことで、生命を賛美してしまう。
■結論の吟味
身体を動かすことの欲求をどのように社会は馴致していくか。それが一種のダンス教育になるのか、身体の訓育になるのかは分からない。ただし、身体のリズムを教えること。身体の躍動の喜びを教えることはダンス教育で可能なはずだ。身体が持つ生命の躍動と、ダンス教育の方向性を考察し、良好な関係を取り結べるように尽力したいと考え、貴学への入学を希望する。
※1及川和夫「ブライアン・フリール『ルナサの踊り』論――強制・崩壊・継承」『早稲田大学大学院教育学研究科紀要』29 2019
コメントを残す