■議論の整理
仏像はイコンの一つだ。仏像によって、私たちは神に近づくことができるし、神のご加護を得ることができる。仏像には、「生身」「霊験」などのように、神の力が宿る仏像が多く存在し、現在まで伝承されている※1。神の霊験を感じるには、偶像がなくてはならない。
■問題発見
日本の仏教の面白い所は、人間自身も仏になることができるところである。即身成仏のように、地中に埋められ、餓死していくと仏になることができるという思想を持つが、これは偶像になりたいという願望の表れとしてとらえることも可能だろう。祈りをささげる修行僧は、いずれ人間を超えた仏像になることを夢見ているかのようだ。
■論証
西洋の偶像は別である。偶像はあくまで偶像としてあり、神の似姿としてある。偶像がある空間では礼拝的価値のアウラを帯びるものの、複製することは固く禁じられる。彼らは、神になることはできないので、ただ祈りしかない。一方で、アジア的な偶像は、自分もそれに近づくことができたり、触れたりすることができるものとしてあるかのようだ。ここにアジア的ないし、日本的な霊験への考え方が表れているように私には思われる。
■結論
日本の平面を考えてみるとどうか。日本は古くから遠近感をもって世界を透視する方法を避けてきた。平面的な江戸の絵画たちは、そのことを印象付けている。表面に対するアニメーション的な想像力でもいいだろう。面に対する日本的なフェティシズムの源流は、いずれ私もあの表面になりたいと夢見ている修行僧の欲望に近いかもしれない。
■結論の吟味
話が逸脱する部分もあるかもしれないが、仏像や日本の古美術などを通して、日本の精神と日本の美学的源流をたどってみたいと考えている。時には比較文化的な方法もとりいれ、宗教学的な研究、民衆史など様々な学問的成果を踏まえながら、日本の美学の源流を突き詰めてみたいと考え、貴学への入学を希望する。
※1研究代表者有賀祥隆科学研究費助成事業「生身と霊験――宗教的意味を踏まえた仏像の基礎的調査研究」研究成果報告書2011-2014
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