■議論の整理
日本語の詩とちがって、英語の詩には日本語にはない多様性を持っている。日本語では、目的格か主格か(そもそもそのような区別が日本語の文法に存在するかどうかも議論するべきかもしれないが)は助詞「を」「に」「が」「は」などで判断するが、英語では、単語自体がIからmeに変化することで表現される。本来であれば、Iが入るべきところに、meが入るとどうなるか、それを実験的に試すことができるのが英語なのである。
■問題発見
上記のように、my life を主語に置くことで、Iという主格とも読めたり、もしくは受動的な静物語として読むことができることを活かしたうえで、エミリ・ディキンスンの詩は、一見すると恋愛の詩のような趣が、詩自体が詩を書くという突拍子もない要素を受け入れる素地を作る。たとえば「あなたの名前を忘れてしまったわ」という表現が、「(長いこと没原稿として放っておいたから、)わたしを造ったあなた=詩人の名前をわすれてしまったわ。」という読み方を許す素地を、言語の置き方、書き方ひとつで残すことができるのが、英語の詩の可能性だ※1。
■論証
日本語は一方で、定型詩にすぐれた能力を発揮する。五七五という調べは言わずもがなだが、限られた音数で最大限日本語の魅力を発揮しようとしたり、音の響きを活かすことですぐれた詩を創出してきた。日本語には日本語にしかできない定型詩の世界が広がっている。
■結論
一方で、英語には上記のような変格の可能性から読み残す行間を作り出すことであったり、もしくは、散文詩における文末表現の多様性から、豊饒な可能性を持っている領域だと考えられる。もし日本語の散文詩を書こうとすると、どうしても文末は動詞が多くなり、ウ段もしくは「~た」が多くなって単調になることもある。
■結論の吟味
英語の詩は多くの可能性をもっている分野だと思われる。それぞれの言語にはそれぞれの言語の特徴があり、言語が詩を作り出し、思考を作り出していると言っても過言ではないと私は思う。その言語の物質性を元に、言語の豊かさを引き出している詩人という存在に寄り添いながら言葉の可能性を考察してみたいと考え、貴学への入学を希望する。
※1江田孝臣「エミリ・ディキンスンの〈推敲途上の詩〉を話者とする詩三篇とその発想の淵源」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第二分冊(57)2011
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