- 議論の整理
多様な価値観が存在する現代社会にあっては、かつてのように明確な生きる目的を持つことが難しくなっていると言える。このような現状において、生きる意味を再発見する為に死を見つめ直すことが逆説的に成立するのではないだろうか。特に、キリスト教を学ぶものとしては殉教に注目し、その動機を検討することで殉教者が命を懸けてでも求めたものが何だったのかを理解することが必要であると考える。
- 問題発見
一方で、殉教を過剰に賛美することは死を美化する論理に繋がってしまうということも念頭に置かねばならない。そのような論理は本来非暴力的なものであった殉教の形を歪めているのである。佐藤はこの問題について論じ、かつての二次大戦下の日本においてこのような間違った論理がまかり通り、国家が国民に国難に殉ずることを強いた苦い過去を例に挙げて、殉教を取り扱うことの難しさを述べている。それでは、殉教者の生き方にのみ注目し、生きる目的を見つけるにはどうすればよいのだろうか。
- 論証
もちろん列福の本来の意図は福音的生き方を貫いた彼らに対する敬意の表明として、その生を後世に語り継いでいくことであり、佐藤もそれを指摘している。そこに普遍的な価値を見出そうとするのなら、権力に屈さず、人道に反する要求に対して最後まで抵抗するということではないだろうか。その姿勢は幕末期のキリシタン迫害に対する抵抗としての殉教に見られる。そして彼ら殉教者は信仰を通じて個人に目覚め、尊厳を獲得したからこそ信仰を捨てることをしなかったのだと考えられる。その意味で、彼らの生き方を再検討したい。
- 結論
この研究を通じて、混迷を極める現代社会において正しい生き方を貫く姿勢を学びたいと考えている。
- 結論の吟味
上記研究を行うにあたって、これまで貴学においてキリスト教と人間の生について論じてきた武田教授のもとで学ぶことを強く希望する。
参考文献
佐藤泰彦 (2016) 「殉教者を顕彰することの今日的意義とその問題点」『一神教世界』 7, 41-57
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