キリスト教の教えは愛することの大切さを説くものです。とくに強調していることが「互いに愛し合う」ことだと私は考えます。「互いに愛し合う」ことの大切さを、イエス・キリストが身をもって示されたのが十字架上の死の場面です。無実の罪で逮捕された主イエスは、体をひどく痛めつけられ、十字架につけられたあとも、激しい痛みや苦しみに耐えながら命を差し出しました。
十字架刑の場面は、自分に与えられた試練は神の愛によるもの、それに耐えることは神に対する自分の愛のかたちであると主イエスは考えました。さらに主イエスが十字架刑を受け入れたのは、人間の罪を償うためでもあります。つまり、すべての人間に対する愛のかたちとして十字架刑の苦しみを引き受けたのです。
聖書にある生命観はふたつあります。ひとつは、「すべてのいのちは、神の創造によるものであり、神の特別な愛のたまものである」という聖書の教えから分かるように、人間の命は神の意図と一体であること。もうひとつは、命は神の創造物であるため、それが失われることは恐れる必要はないこと。主イエスは、痛ましい姿を人前でさらすことで、神の愛により死への恐怖を乗り越えられることを、私たちに教えてくれたのです。
聖書のなかには、主イエスが亡くなったあと3日後に復活した場面があります。人間の命は神の意図と共にあることを私たちに伝えるため、復活されたというのが私の考えです。十字架刑の場面が主イエスの死で終わってしまうと、命の意味を私たちに完全に伝えることができません。処刑から復活まで見ていくことで、キリスト教の生命観が分かるようになっているのです。
十字架刑は、今の私たちにとって非日常的な場面です。しかし、家族、友だち、偶然に出会った人々と「互いに愛し合う」ことは日常的な行為です。「互いに愛し合う」ことを日常生活のなかで実践することで、神の意図の一部を知れるということを、キリスト教は教えているのです。(808字)
コメントを残す