- 議論の整理
オリンピックを例に挙げるまでもなく、スポーツは関わる人すべてに一体感を与える。ナショナリズムの先鋭化が進む現代社会の潮流の中で、人類の融和を図るためにもスポーツという文化的活動の価値を再確認する必要がある。そこで、異なる人種・エスニシティにより構成された国家であるアメリカ合衆国をモデルとして、スポーツが集団の分裂や摩擦のリスクを軽減するうえで果たした役割をスポーツ史学の観点から整理することには重要な意義がある。アメリカスポーツ史学では、1920年ごろに始まったハーレム・ルネサンス期における黒人スポーツに関する研究がその意義の大きさにも関わらず不十分であるといえる。
- 問題発見
このような黒人スポーツへの不理解が、アメリカ合衆国や日本に未だ跋扈する、「黒人」に固有の運動能力があるとする「神話」を無批判に受容するような土壌の一因となっているのではないだろうか。こうした事態は、ホバマンがスポーツ・フィクセーションと呼んだようなアフリカ系アメリカ人の半ば強制的なスポーツへの執着を引き起こしている。それでは、日本において「黒人」とスポーツの関係が正しく認識されない真の理由は何なのだろうか。
- 論証
川島教授らは日米の大学生をインフォーマントとして、「神話」が彼らの間でどのように受容されていったかを調査したが、その結果からは、日本人大学生にあっては「黒人」に対して正負一方向に集約できない多様な感情が交錯しており、その背景には相互理解を促すような接触の希薄さが存在していることが判明した。これを踏まえ、日本人の黒人観を形成する主要な要因であると考えられるマスメディアにおける黒人アスリートの扱われ方について分析する必要があると考える。
- 結論
このような研究は、スポーツの持つ文化的価値を正しく発揮する一助となり、ひいては正しい国際理解の啓蒙となりうる研究であると考えられる。
- 結論の吟味
上記研究を行うにあたって、貴学でアメリカスポーツ史を研究している川島教授のもとで学ぶことを強く希望する。
参考文献
川島浩平「日本社会における「黒人身体能力神話」の受容 : 「人種」/「黒人」という言葉・概念との遭遇とその習得を中心に」『人文学報』100, 77-112
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