■議論の整理
日常の体験や考えを記すものが日記である。非常に私的で、ともすれば部外者が読んでも面白くないものにないがちなものだ。それを文学の域にまで極めたものが日記文学だと言えよう。日本には土佐日記をはじめとした紫式部日記、和泉式部日記、更級日記などの平安時代の作品、十六夜日記、とはずがたりなどの鎌倉時代の作品といった、数多くの名作日記文学が存在する。日本独自の文学形態とも言われる日記文学は、私小説もその系譜と考えるのであれば現代まで綿々と受け継がれていることになる。
■問題発見
今になっては平安時代に書かれた日記文学が本当の意味での「日記」だったのかは分からない。蜻蛉日記のようにどこかのタイミングで過去を振り返って人生を記録した場合もあり、その場合は事実をありのままに描けていた可能性は低い。それでも、日記文学は歴史研究の観点からも非常に重要なものだ。また、文学的にも優れている作品も多く、描かれている日常は魅力的だ。しかし、人々はなぜ個人的な想いを外部に向けて発信する日記文学を記したのだろうか。
■論証
自分の日常や人生を振り返って書くことは簡単では無い。その上、誰もがやろうと考えることでは無いだろう。特に、平安時代であれば紙は高級品であったため、よほどの覚悟がなければ始められなかったのでは無いだろうか。にもかかわらず数多くの人が日記文学を書いている。そこには、日記文学を記した人同士の影響があったと考えることもできるのではないか。
■結論
日記文学から分かることは、当時の人々の日常に対しての眼差しだと考える。そしてそれを何故日記文学という形で残したのかを考えることは、文学の力とはどのようなものかと考えることにもつながるのではないだろうか。
■結論の吟味
以上のことから、貴学教育学部国語国文学科に入学し、福家俊幸教授の研究会で学ぶことを強く希望する。
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