■議論の整理
万葉集や古今和歌集などの選定和歌集の研究は盛んだ。歌の韻律が呼び起こすイメージや、日本的な情景を詠った感性が様々な表現技法とともに累々と蓄積され、一つの和歌からほかの多くの和歌を呼び起こすジャンル全体としての芸術として和歌の森は奥が深い。
■問題発見
一方で、それらの大和言葉の芸術以外に、漢詩の教養も積み重ねられている。多くは、真名芸術が男性の教養として扱われている側面があるため、男性貴族たちの間で漢詩を描くことが一種のステータスになってきた。漢詩の教養は、近世や明治時代でも多くの文学者によって引き継がれ、今では近代文学の祖、夏目漱石も漢詩を多く残している。それでは和歌を詠じていた歌人が残した漢詩にはどのような要素が見て取れるだろうか。
■論証
万葉歌人である安倍広庭は漢詩が二首残っている。その漢詩を研究した成果によれば、彼の漢詩は中国の虞世南詩との間に語や発想の類似が多くみられるという。具体的には、春の光を、「糸光」と描写し、柳との縁語関係の中で修辞していく作法は、「糸柳」との関係性が見えてくる。このように繊細な語を日本の文脈の中に置く作業を丹念にたどって見えてくるものは意義深いだろう※1。
■結論
漢詩にも様々な種類があるが、壮大な自然と人間の関係を描く漢詩が多い一方で、日本的な感性はどちらかというと細部に宿っていると私は感じている。漢詩の世界を日本的な文脈に置き換えていく作業は、一種の翻訳作業にも似て大変な労力を要したに違いない。漢字の持つ力強さや、その一語がもたらすイメージを、仮名がもつ感性や大和言葉のなめらかさのなかに落とし込む作業が重要であろうと個人的には感じているが、和歌の歌人が漢詩を読む際に行った語の選定作業にその精神を見ることはできないだろうか。
■結論の吟味
和歌の世界と同様に、漢詩の世界も広大だ。その中で昔の歌人が何を選び、何を翻訳し、何を表現しようとしたかを探ることは、現在さかのぼれる限りの日本文学が始まった中古の文学世界の比較文学的な視座を可能にするだろう。上記のようなことを研究したいと考え、貴学への入学を希望する。
※1高松寿夫「万葉歌人の漢詩――安倍広庭「春日待宴」をめぐって――」『國學院雑誌』116 2015
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