■議論の整理
3.11から10年以上が経過している。世界同時多発テロとも評されるこの事件は、世界貿易ビルに旅客機がつっこむ映像とともに瞬く間に世界中に広がり、大きなインパクトを与えた。現在でもこの構図は根強く残っている。
■問題発見
いわゆる宗教対立のような構図を想定させてしまうこの問いは、一方で共同体が共同体とどのようにつき合っていくべきかを考えざるを得ないパラダイムに突入してきたことを示唆している。文学者たちは、戦争の時に声明を出したり、政治的な大きな出来事に反応してきた。世界同時多発テロにも同様の試みがなされたが、では実作ではどのように反応しているだろうか。
■論証
アメリカの作家に、ドン・デリーロの作品にMao Ⅱ(1991)という作品があるが、この作品はお互いの語りが、いかに相いれなく、最後には相互破綻をきたしてしまうかを描いてします。民衆を教化し教え諭さねばならないと躍起になっている主人公は、自分の言葉がいかに陳腐で根拠のないものかを知るにつれ、自分の語りの限界を自覚するし、一方カルト集団の方でも、自分たちの競技を他者に説明することの困難を感じ、自身の語りから抜け出すことができないでいる。この小説は、自分の共同体の自明性=言語がいかに自明でなく脆弱で、横断不可能なものかを暴き出している※1。
■結論
他者の説得が出来ないことをしった彼らに残された道は何か。それは暴力に訴えることだが、それ以外の方向がないものかとデリーロは模索しているように見える。語り=言語が消失してしまった後に残るものはそれはただのモノとしての身体だ。彼らに残された身体という自己の中にある他者とのめぐり逢いが、今後の人生を規定していくことになるだろう。
■結論の吟味
文学が、政治に与える影響を失って久しいが、いまだに格闘を続けている作家はたくさんいる。日本では中村文則『教団X』がデリーロと同様の構造を持っている作品だと私には思われる。教団Xの内部の信者は身体性を性愛によって馴致されてしまう様子まで追加して描かれているようだ。文学が世界の情勢にどう立ち向かっていくか、その様を私も見詰めてみたいと感じ、貴学への入学を希望する。
※1都甲幸治「テロリズム・カルト・文学――ドン・デリーロのMao Ⅱにおける他者の表象――」『アメリカ研究』36 2002
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