- 議論の整理
私はかつてコ―マック・マッカーシーの作品に衝撃を受けた。彼の作品は人間が本能的に抱える暴力性を端的に描写するが、それは決して露悪的なものではない。そこには人間が向き合うべき哲学的な問いかけが常に横たわっている。例えば、『ブラッド・メリディアン』は西部開拓時代を舞台に先住民狩りの一団という極めて暴力的な集団を描きながら、「明白なる使命」という言葉に象徴されるようなアメリカ例外主義に潜む強者の倫理の是非を問いかけている作品である。
- 問題発見
この作品はビルドゥングスロマンとウエスタンの両方の性質を持つと評されてきたが、山口教授の『ブラッド・メリディアン』論は、主人公の少年が徹底的に反「成長」の存在として描かれていることを指摘する。自らの暴力性の制御を「成長」と呼び肯定するのは、社会の規範によって規定された既成観念に過ぎない。それは暴力を倫理との単純な二項対立軸で捉えているだけである。マッカーシーはあえて「成長」することのない暴力性をありのまま描くことによって、その本質を人間の自由意思に関する議論の俎上に載せた。それでは、マッカーシーは暴力性と人間の自由意思との関係をどのように捉えていたのだろうか。
- 論証
『ブラッド・メリディアン』において少年と敵対関係になる人物は判事である。山口教授の論において、判事は「啓蒙的知性の到達点を示す人物であると同時に暴力の権化である」と評されている。知性は支配欲求から生じるものであり、それは本質的に暴力性を抱えているが、判事の持つ暴力性と少年に象徴される根源的暴力性は質的に異なっている。前者を強者の倫理として肯定するのが知性主義の極北であり、ポスト近代に生きる我々が克服すべき問題であるが、マッカーシーはその対立存在として根源的暴力性を置くことで新しい倫理的議論の地平を開こうとしたのだと私は考える。そこで、彼の他の作品において暴力と倫理がどのように扱われているのかを検討したい。
- 結論
上記研究を行うにあたって、これまで貴学においてマッカーシー作品に関する数多くの論文を執筆してきた山口教授のもとで学ぶことを強く希望する。
参考文献
山口和彦 (2016) 「暴力表象と倫理の行方―コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』論」『関東英文学研究』 8, 1-10
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