■ 議論の整理
ジョン・ウィリアムズ教授がメガホンを取った『審判』は、フランツ・カフカの『審判』を原作に、舞台を現代日本に置き換えた作品である。『審判』は過去にも1962年にオーソン・ウェルズによって映画化されており、文学作品が国境を越えて映画化されること自体はそれほど目新しい現象ではない。私が関心を抱いているのは、日本語とドイツ語で執筆活動を行う多和田葉子が言うところの「エクソフォニー」、つまり自分を包む母語の響きの外に出ること、そこで創作活動を行うことの意味を問うことである※。
■ 問題発見
私は映画や演劇が好きで、小学生の頃から英語劇の活動にも参加してきた。最初は英語の上達を目的として始めたが、そのうち、慣れ親しんだ民話を英語で表現するときに、言葉だけではなく身体の動きや所作一つ一つまで、母語で演じる時とは異なることに気づいた。
アシュケナージ系ユダヤ人の血を引くプラハ生まれのドイツ語作家カフカの小説が、時を経てイギリスで生まれ育った英語を母語とし、日本で教鞭をとる映画監督の手で、日本語を母語とするキャストによって再演される時、それは単なる「複製」や「再現」とは異なる意味を帯びるのではないだろうか。
私自身も将来、母語ではない英語で演劇や映画の脚本を書きたいと考えているが、言語や文化の違いを超えて多くの人に「これは私自身の物語だ」と思ってもらえるものを書くことを目指している。と同時に、異なる言語の狭間にあえて身を置いて表現活動を行うことによって見える風景について、先人や自己の経験を分析・考察してみたいと考える。
■ 結論
この課題を追求するにあたり、自らが母語と日本語やその他の言語を行き来する創作者であり、研究者でもある貴学のジョン・ウィリアムズ教授のゼミに入会し、文学や映画、演劇といったジャンルにとらわれず、自らにとって外国語で表現することの意味を追求していきたいと強く希望する。
※多和田葉子(2003) エクソフォニー₋母語の外へ出る旅 岩波書店
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