2007年度FIT入試第2次選考概要(政治学科)
3.グループ討論の概要 •テーマ:『校則のあり方』
- 司会者の有無:教員が司会役を務めるが、進行とタイムキーピングのみを行い、受験生の自由な議論にまかせる。
- 討論時間:60分
4.発表と質疑応答の概要 •発表と質疑応答時間の配分:各15分程度、合計30分
*自分がこれまで行ってきた活動や入学後の目標と構想を自由に表現する。
※グループ討論と発表と質疑応答の順番:午後のグループ討論と発表と質疑応答は、受験生によって順番が異なる。
■想定される議論
それでは、「校則のあり方」について議論をしたいと思います。
《共同体にルールがなぜ必要か?》
まず、校則とはなぜ存在するのか考えましょう。校則を考える上では、2段階に議論を分解して考えます。一つ目は、そもそも共同体にルールがなぜ必要かという視点です。次に考えることは、なぜ学生の共同体にルールが必要かという点です。
共同体にルールが必要な理由について考えましょう。共同体にルールが必要であることを考える上で重要なのは、共同体でなければルールは果たして必要なのかという視点です。つまり、無人島に一人だけの人間が住んでいたときに、その一人が守るべきルールが必要かを考えれば極めてわかりやすい話となります。結論は、「一人だけで構成される世界にはルールそのものが不要である」ということです。無人島に一人で生活をしているわけですから、ルールを作ること自体が不要で、朝起きても夜起きても自由、いつ何をどのように食べても自由、服を着ても着なくても自由、ということになります。
なぜそれが許されるのかというと、「他人に不快な思いを与えないから」「他人の権利を侵害しないから」「他人の権利を守る義務が生じないから」ということが言えます。ひとりで生活することが可能である範囲では、共同体のルールというものは不要になるわけです。
ということは、共同体にルールが必要である理由というものは、逆に考えると、「他人に不快な思いを与えるから」「他人の権利を侵害するから」「他人の権利を守る義務を履行していないから」ということを考えることができます。つまり、共同体にルールが必要な理由は、「自分が自由に生きることによって、他人の自由と衝突して、お互いに不快な思いをすることを未然に防ぐ必要があるから」ということになります。たとえていうと、電車で移動しているときに周囲を全く気にせず、携帯電話を利用して大声で話している人をみて、同乗者が困っていることを想像したらよいかもしれません。刑法で規定されている犯罪行為である殺人・強盗・窃盗といった罪も、「他人の自由を不当に侵害するような個人の自由は認められない」という考え方を基盤にして罪が規定されていると考えることも可能です。つまり、共同体にルールが必要である背景には、「共同体社会の内部の個人の自由をお互いに認め合って生活をしていかなければならないから」というきわめて実用的な理由が根底にあると考えてよいのではないかと思います。
《校則は学生の共同体になぜ必要か?》
では、お互いの自由を認め合うためにルールを作る必要がある共同体が、「学生の集まり」である場合に、さらに「校則」と呼ばれるルールを作らなければならない特別な事情はあるのでしょうか?
そもそも学生というものは、社会人の一員ではなく、社会人になるための勉強をしている期間であると理解されていることが一般的です。その理解を基にしたら、社会人として生きる前段階の経験として、何等かの特別なルールによって、共同体のルールというものが決まっていることには一定の合理性があると考えることも可能です。例えば、鍛冶屋に弟子入りした弟子が師匠と同じルールで毎日生活することができるでしょうか?それは、できないと解されるのが普通です。なぜなら、師匠と弟子とは立場が違うからです。師匠は刀をつくる術を教える立場で、弟子は刀をつくる術を教えてもらう立場です。立場に違いがある以上、当人が学ばなければならないことも異なり、当人がなすべきルールにも当然違いがあるはずです。具体的には、師匠が刀を作っているときには、弟子は師匠がよりよい刀を作れるように山から薪を集めてこなければいけないといったルールです。
このように、社会の内部で置かれている立場が違えば、当然それに合わせたルールが作られるのはある意味では当然といえます。逆に言えば、刀を作ることが一人前にできない弟子が刀を作ろうと問答無用に頑張っても、一人前の刀を作ることができないため、相応のルールの下に、身分を保障され、教育を受けているのだと考えることも可能です。ルールの下に身分が保障されているわけです。
同様に、学生の立場では、いきなり一人前の社会人として、契約関係の主体になって意思決定を行うことができるわけではないと理解されます。一人前になるには、相応の経験を積んで、知識を学んでおかなくてはいけないわけです。従って、学生も、校則を守ることにより、学生としての身分を保障され、そのルールの中で様々な経験をして大きな失敗を経験しないように守られながら、一人前の社会人になれるように社会制度が整えられていると考えることができます。
《校則とはどのように作られるべきか?》
そのため、校則自体は、学生ではない教員が半ば一方的に規則を作成することが多いといえます。経験が乏しい学生に、適正な規則を作成する能力を全面的に期待することができないからです。しかし、そのような校則のあり方に対して疑問をもち、自分達の学生共同体の規則を学生の手で模索していこうとする運動を起こす生徒会の活動などは、学生にとって適正な規則に著しく逸脱しない形であれば許容できるのではないかと考えます。たとえば、学生共同体の規則を自らの手で選挙等を使って作るという行為は、民主主義の考え方そのものだということも可能です。
まとめ
以上のことより、「校則のあり方」として、「お互いの自由をよりよく認め合うため、ルールを定めることが共同体の運営上必要なこと」と、「学生の共同体においては、学ぶ立場であること相応の校則(ルール)を定めることが学生の身分保障の根拠になっており、立場上必要であること」、そして、「校則を定める際には、教員が一方的に規則を定めることが一般的だが、学生共同体が選挙等で規則を定めていくことという自主的運営に対しても、民主主義的な方法として許容すべきであること」が考えられます。
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