3.グループ討論の概要 •テーマ:『「KY(空気が読めない)」が否定的な意味で使われる理由。良い点はないか』 『日本の教育制度の長所と短所、およびその改善方法』
*グループ討論の順番によって上記テーマのどちらかが指定される。
- 司会者の有無:監督者は、進行とタイムキーピングのみを行い、受験生の自由な議論にまかせる。
- 討論時間:60分
4.発表と質疑応答の概要 •発表と質疑応答時間の配分:各15分程度、合計30分
*自分がこれまで行ってきた活動や入学後の目標と構想を自由に表現する。
※グループ討論と発表と質疑応答の順番:午後のグループ討論と発表と質疑応答は人によって順番が異なる。
疑応答の順番:午後のグループ討論と発表と質疑応答は、受験生によって順番が異なる。
■想定される議論(その1)『「KY(空気が読めない)」が否定的な意味で使われる理由。良い点はないか。』
『「KY(空気が読めない)」が否定的な意味で使われる理由。良い点はないか。』について議論をしたいと思います。
《「KY(空気が読めない)」が否定的な意味で使われる理由》
「KY」が否定的な意味で使われる理由は、日本の文化的な土壌が「空気が支配する国」であることに原因があると考えられます。人とコミュニケーションをとる場合についても、相手の気持ちをくみ取って話すことが最優先の課題であることも、日本人同士の会話では、「空気を読みあうこと」が重要であるという暗黙の了解があることを意味しています。このように、「空気を読みあうこと」が当たり前の考え方になっている日本人のコミュニケーションの文脈の中では、「空気が読めない」会話そのものが不快な会話をしているとみなされることになるわけです。会話主にとって空気が読めているかどうかが分かりにくい場合は、「空気が読めない」会話をすること自体が性格的な欠陥であるように扱われる場合も無きにしも非ずです。しかし、日本文化の中でネガティブワードとしての地位を確立している「KY」という言葉にポジティブな意味は見いだせないのでしょうか?
《「KY(空気が読めない)」の良い点》
「KY(空気が読めない)」ことの長所は、意外に簡単に見出すことが可能です。それは、周りの期待を打ち破って新しいことを成し遂げなければならない時に有効なコミュニケーション方法となります。例えば、既存のアイディアや方法がすでに行き詰っていることがだれの目にも明らかであるにもかかわらず、新規の考え方をしようとしない場合に、空気が読めない言動が必要な場合があるわけです。
それを一般化した言い方をして表現すると、「イノベーションが必要な場合」となります。「KY(空気が読めない)」であることとは、「イノベーションが必要な場合」に威力を発揮する可能性があるわけです。これまでの考え方の空気を全く読まずに繰り出す一手こそ、行き詰まりをむかえている状態の集団には必要な発想法だと考えることができるのではないでしょうか。
まとめ
以上のことより、日本文化での代表的なネガティブワードである「KY(空気が読めない)」は、日本文化の「空気を読みあう」コミュニケーションスタイルに深く根ざしたものであるといえます。しかし、「空気を読みあう」コミュニケーションによっては、打開できない困難が起きた場合には、「KY(空気が読めない)」がイノベーションの発祥原理となって、新しい発想を生む土壌になることができるということが考えられます。
■想定される議論(その2)「日本の教育制度の長所と短所、およびその改善方法」
「日本の教育制度の長所と短所、およびその改善方法」について議論をしたいと思います。日本の教育制度は、「6・3・3・4制」に代表される小学から大学までの学歴社会です。特に、大学の学歴は生涯にわたってステータスとみなされ、どの程度の学力を有しているかの判断材料とされることが多いと言われます。この日本の教育制度の長所と短所について考えましょう。
《日本の教育制度の長所と短所は何か?》
日本の教育制度の長所は、学習指導要領を段階的に学習する仕組みが整っていることです。つまり、「6・3・3・4制」の合間に入学試験という試験を行い、段階的に学習した内容の達成度に応じて、より高い学力の学校に入学を許可され、本人の能力に見合う教育を受けることができるようになるという仕組みが整っていることが挙げられます。教育の達成度に応じた段階的な学習システムを国家として保有していることは、教育によって人材を確保し、国力を増大させる上では非常に重要な施策でした。特に、中産階級と呼ばれるサラリーマンを養成し、高度な組織社会の一翼を担う人材を輩出する上では、小学から高校までの知識に基づいた教育を基盤にして、大学にて専門性の高い学問を学ばせることが、非常に大きな役割を果たしたものと考えます。これが日本の教育制度の長所です。
日本の教育制度の短所は、段階的に学習する仕組みを整えたこと自体に含まれます。それは、入学試験を通ることができれば、その後の学習の進捗は本人の意欲のみによって管理されることが多く、段階的に学習を進めていく仕組みが、事実上「入口社会」と化しているという現実があるということです。アメリカでは大学に入学すること自体は日本ほど難しいことではありませんが、入学後の学習はかなりのハードスケジュールになりがちだと言われます。そのため、大学の卒業が難しくなります。これは、日本が入学試験で人材を選抜する「入口社会」である一方で、アメリカは入学後の人材教育に力を入れる「出口社会」であるということもできるだろうと思われます。
《日本の教育制度の改善方法は何か?》
さて、「入口社会」となっており、入口以外の教育の中身が空洞化していることが懸念される日本の教育制度は、いかなる点で改善が必要なのでしょうか?一つの案は、「教育の中身が空洞化しているならば、その教育の達成度に応じて、大学の補助金の多寡を決めるなどの差別化を検討する」というものがあります。また、「教育の達成度に応じて研究費用の予算枠の拡大」ということを検討することも教員のやる気を刺激するかもしれません。どちらにせよ、教育の目的達成に応じて、教員の処遇を変える施策の導入が「入口社会」の打開のためには必要なのではないかと考えられます。
まとめ
日本の教育制度は、段階的に学習した内容を効率よく学習するために入学試験制度を整えて、本人の学力に見合った教育を受けさせる仕組みを創った点で高く評価できます。しかし、入学試験の影響力が大きく入学後の教育内容の達成度を評価していないために、「入口社会」化し、教育内容の空洞化が懸念されます。そのため、各学校に入学した後の教育目的達成の度合いに応じて、学校の扱いを差別化し、教員の意欲を引き出す施策が必要となっていると考えられます。
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