■議論の整理・・・
一般的に、イスラム教の経典であるコーランと、キリスト教の経典である聖書は、異なるものと見なされがちである。しかし実際は、キリスト教は旧約聖書を経典として採用しているため、コーランと全く無関係ということはない。キリスト教で最上位となるのはキリストであるが、アブラハムも信仰の模範のひとつである。このように宗教の歴史としては連続性があるものの、イスラム教とキリスト教は対立的に捉えられ、それが現実世界における衝突につながることも少なくない。
■問題発見・・・
キリスト教とイスラム教が区別された背景には、どのような神学的な理由があるのだろうか。それを解明することにより、中東紛争が終わらない理由が見えてくるのではないだろか。
■論証・・・
論文※1では、ボストン・マラソン連続爆破テロ事件の犯人による「聖書はコーランの安っぽいコピーだ」という発言から、キリスト教世界ではその逆の認識が浸透していたことに注目する。そして、キリスト教の世界では、コーランが対立的な教義として位置づけられてきたことを、神学者の発言などを通じて明らかにした。私は、キリスト教のなかにある多様性を正当化した運動としてルターの宗教改革に注目したい。同時にイスラム教のなかにもルターの宗教改革を肯定的に捉える人々が増えてきていることも注目点である。
■結論・・・
そこで私は、ルターの宗教改革が、キリスト教内における多様性をどのように浮かび上がらせたのか明らかにする。そのうえで、イスラム教とキリスト教がどのように歩み寄れるのか、教義的な面も踏まえて考察する。
■結論の吟味・・・
矢内義顯教授は、イスラム教の変容の歴史を、教義の分析を通じて研究している。私は、コーランと聖書の分析も含めたいことから、矢内義顯ゼミに所属することを希望する。
論文※1矢内義顯(2013)「なぜキリスト教はコーランを誤解したのか?」438号『早稲田商学』(早稲田大学)
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