■議論の整理
歴史をどのように記述するかという問題は、物語理論の登場で、歴史叙述に大きな影響を与えた。出来事をつなぎ合わせて物語が出来上がるなら、そこには一つの筋を選ぶという恣意的な性格や、ほかの選択肢を捨てるという性質が介在することになる。出来事を一つ一つ取捨選択して出来上がるのが、物語であり、フィクションだ。
■問題発見
歴史教科書は一つ一つの出来事を単線的に説明するため、そこには描かれない別の歴史が存在することになる。歴史教科書は一つの物語であり、一種の国家イデオロギーを描き出す装置だ。その弱みに付け込んで歴史修正主義者たちは次のような暴挙を行った。南京大虐殺は起こっていないし、従軍慰安婦もいない。そのような史実的資料がないのだから、その出来事は存在しないとして、「歴史」を訓育してもよいのだ。だが、ないことにできないものがたくさん歴史にはあるはずだ。
■論証
別の歴史は確かにある。オーラルヒストリーとよばれるものや、フィクショナルな語りの中にそれは必ず息づいている。たとえば、公的な資料の中に存在が根付いていなくても、日本の古典文学の中に慣習的に描かれていれば、そこには物乞いをする群衆がいたし、熱心なお布施を行う人物たちがいたことになるはずだ。※1
■結論
歴史は常に、語り継がなくてはいけないという意味で、必ずフィクショナルな要素が入ってしまうのは事実だ。だからといってなかったことにはできないし、それは人々の記憶の中に、もしくは文芸作品の中にまぎれこんでいる。書かれなかった人々の声を聞き取り、別の可能性とともに、今と未来を考えてみたい。
■結論の吟味
マルグリット・デュラス監督の映画『二十四時間の情事(ヒロシマモナムール)』で、広島の惨劇を見た女性主人公は「私はすべてを見た」といい、男は「君は何も見ていない」という。凄惨な光景は、表象すること自体が難しい。しかし表象する方法以外で歴史を描くことができないか。そのようなことも一緒に考察し、貴学に入学後研究してみたいと考え、強く入学を希望する。
※1鹿島徹「〈物語〉の解体と動態的再生のために――哲学的歴史理論からの試論」『物語研究』物語研究会 2013
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