■議論の整理
言葉をどのように用いるか。われわれがロゴス的存在だといったギリシアの哲学者は、よく詩を書いた。ロゴスは画院円を生み出し、私たちを目に見えない観念の中に閉じ込めたりする。それが、共同性を帯びるとき、国家のイデオロギーとして作用してしまった経歴をもつ世界は、それでもどのように言葉を使うのか。詩人はそのとき何を述べるのか。
■問題発見
アドルノが「アウシュヴィッツのあとに詩を書くことは野蛮である」といったように、言葉を用いたロゴスは、一種の危険なにおいを放っているだろうか。しかしそれでも私たちは言葉の可能性を手放してはならない。日本において、戦後派詩人を代表する田村隆一は老齢になったときに、『奴隷の歓び』の中で、次のようにうたう。「おれは〈物〉だからロゴスはいらない/ロゴス的存在でないおかげで/誤解/偏見/独断/から脱走することができたのだ」。言葉が人を先導し、言葉を巧みに操るものが人々を支配した。だが私は単なる〈物〉だから、奴隷に徹することができる。私は自由である。田村隆一の根底にはそのような思想がある。
■論証
言葉は言葉であるだけだ。だが私たちは世界に係留され、固定化しなければ奴隷にはなれない。いつまでも言語的存在である私は、言葉を世界とつなぎとめる隠喩として作用させなければならない。この垂直性がどこかで機能していない限り、私は崩壊してしまうかもしれない危険性をいつまでも獲得してしまう。奴隷は、奴隷になるために言葉を概念として提出しているともいえるからだ。
■結論
垂直性を獲得しない、言葉はいかにして可能か。言葉の固有性を排除しながら、世界にかすかにつなぎとめる、そんな言葉たちは可能だろうか。換喩的な表現でもない、水平的だが皆が集まれる場所、それを港と形容して提出したのが北村太郎である。田村隆一と一緒に「荒地」という詩誌から出発した北村は、同じ問題意識を共有しながら、提出した回答は異なっている※1。
■結論の吟味
「懐中電灯を空に向けたってなんの意味もないのに/そうしてしまう/死とは固有名詞との別れであり/人名よ、地名よ/さようなら、ってことだ/ちょっとあの世にいる気分になれたな、とおもう/いいにおいもしたし」。こう述べる北村には、死は物になることと同義であり、理想的な場所だが、「気分になれたな、とおもう」ことでよい場所であり、いいにおいがすればよい場所だ。感覚的な言葉のニュアンスに係留された言葉たちは、とても軽やかだ。このような新しい世界と言語とのつながりをより深く考察してみたいと考え、貴学への入学を希望する。
※1堀内正規「『港の人』は何をしているのか――北村太郎の表現」『早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌=WASEDA RILAS JOURNAL』3 2015
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