■議論の整理
書くという行為は、主体を混乱させる。私が私を描くときに生まれる距離は、書かれる私を物語の中に固定的に配置し、一種の囲い込みに成功したかに見え、書いている私の主体の場所を確かにしていく欲望を一層強くし、そう思う私、そう思っているしかない私を擬似的に浮かぎあがらせる。しかし書いている私は、書かれている私の不確かさによっていつしか逆襲に会い、主体を消尽させてしまう。書くことに自覚的な回想小説家たちの主人公はそのような運命をたどるのではなかったか(夏目漱石『こころ』の先生などを想起されたい)。
■問題発見
それでは、書く行為を抜きにした観測する主体を想定することは可能か。一種の映画のキャメラアイになぞらえられるその行為は、主体の意識(無意識)をカッコに入れて、事物を等価に映し出す視線を獲得したいと夢見ている。映画と文学の交錯はこのようなプロブレマティックにおいて有意義な視点を提供してくれるかもしれない。
■論証
ドイツの戦後文学者の中で、アイヒンガーとヴィンクラーがいる。彼らの小説は語る主体としての私が書いてはその対象をかき消していくというあいまいなエクリチュールを展開する。まるで、書くことを固定することは不可能であり、書く主体の不確かさを浮き彫りにするかのようだ。そしてそんな彼らが愛したのが映画だった※1。
■結論
映画の中のキャメラアイに対する信仰はもとより、映画館という場所のアクシデント(たとえば映写機の故障)にも身を躍らせているこの作家たちは、非主体的な作用、そしてそれはもっぱら機械に対する信仰とでもよびうるが、それらの作用に対して一種マゾヒスティックすぎる反応に享楽している。書く行為と撮る行為の結合を夢見る彼らの登場人物はしかし幸運な結末を迎えてはいない。
■結論の吟味
作品の中の登場人物は、固定化しない非主体的な主体の筆致でできごとを描写していくが、最後には共感覚的な祝宴に巻き込まれ、その主体を失ってしまう。その時に作動するのが映画の音響や映像効果だった。映画は、キャメラアイのような等価な視線だけで成り立っているわけではない。そこにはモンタージュがあり、音声の演出がある。従来映画研究においては、キャメラアイに代表される、映像への信仰があったが、それらへのカウンターとしてこの議論は非常に有益だと私には思える。映画と演出と主体、ひいては文学と映像との接着点について有意義な研究をしてみたいと考え、貴学への入学を希望する。
※山本浩司「映画と死――アイヒンガーとヴィンクラーにみるオートフィクション――」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第二分冊 59 2013
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