- 議論の整理・・・
美はしばしば、対をなすものの中で語られる。例えば、美術の歴史を見ると、室内で緻密に制作を行うアカデミー派に対抗する形で屋外で瞬間を切り取る印象派が生まれた。また、マルセル・デュシャンは手の業を重んじる美術界にレディメイドの《泉》を発表することで問題提起をした。つまり、美術界の流れやトレンドを読み、作品を制作することで既存の概念を覆そうとする試みの連続であったと述べることができるだろう。
制作者の側だけでなく、鑑賞の立場においても対をなすものの観点から研究が行われてきた。美に対する態度について、カントは無関心の時に美しいと感じるものこそ真の美しさだと述べ、美を無関心性から把握する規定を展開した。それについてハイデガーは無関心こそが対象の本質的理解の開始であり、むしろ最高度の関心であると述べている。美の定義について同じ立場から正反対の意見が引き出されるのだ。[1]
- 問題発見・・・
現代を生きる我々については、テクノロジーの発達により、制作者にも鑑賞者にもなりうる。手軽にクリエイターを名乗ることができる時代において美術の歴史を形作ってきた巨匠らのようなプロフェッショナリズムは持ち合わせていないが、鑑賞に特化した無関心の存在には留まらない。そのような我々のアイステーシスはいかなるものであるのだろうか。
- 論証・・・
この問いに答えるためには、古典的な哲学思考を学ぶのみならず、現代特有の状況が、感性への影響を学ぶ必要がある。テクノロジーやグローバリゼーション、ジェンダー論などがそれらにあたる。また、美術と自分、他者と自分というコミュニケーションという観点からもこの問題について検討する価値があると考えている。
- 結論・・・
そこで、貴学の文化構想学部にて分野を越えた幅広い観点から学びを得て、小林信之教授の感性と哲学的思考の感性文化論を扱うゼミにて、研究を進めることを希望している。
[1]小林信之「ハイデガー芸術論の射程 ―『対をなすもの』の問題系から」『ハイデガー・フォーラムⅪ』 (2017年) pp.71-87
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