議論の整理(要約)
この文章では、わかったという経験について論じている。わかるためには、自分と相手が同じ心象を抱く必要がある。そのためには、社会で共有されている言語の約束事を正しく覚えなければならない。なんとなくわかった気になっていると、自分がわかっていなくても気が付かず、そして相手と同じ心象を抱くこともできなくなる。
大切なことは、わかったような気にならず、その意味を絶えず問い直す姿勢を持つことだ。それがあることで物事に対する好奇心が維持され、言葉を正しく理解し続けられるのだ。
問題発見
知識を身に付けることで、わかったと思えるのはどうしてなのだろうか。さらに「深くわかる」ためには、何か必要なのだろうか。
論証
私は高校で勉強することを通じて、日本の歴史、社会の仕組み、自然の法則を、わかった気持ちになっている。その要因となるのが、教科書や参考書に書かれている知識を覚えていることである。それが何かと問われたとき、自分が得た知識をつなぎあわせて、説明することができる。また、テストで正解すればわかっており、不正解であればわかっていないと判断する。理解の度合いは、テストにおけるスコアにより測定していると言ってもいい。
ただ、この時点でわかっていることは、記号的・表面的なものに過ぎず、深くわかっているとは言えない。さらに深くわかるためには、実際に経験することが大切であると私は考える。たとえば、教科書で学んだ人間の体の仕組みを、自分の体の経験、他人の体の状況から、より深く学んでいく。さらに、それを言語化して、他人と正しく共有できるように工夫することも不可欠である。
結論
知識に経験が加わり、それを言語化して他人と共有できるようになれば、もっと深くわかることができるだろう。
吟味
看護の世界では、自分は経験してないが、相手の立場に立って想像する状況も多い。知識に基づいた想像力を磨くことも、深くわかるために不可欠になるだろう。(809文字)
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