2010年度FIT入試第2次選考概要(法律学科)
- 模擬講義の概要
- 講義のテーマ:裁判と市民参加
- 講義の概要:
- 裁判の意義と目的
- 裁判に対する市民参加
- 裁判員裁判の導入と課題
*大学1年生が受講して理解できるレベルの講義(50分)を行う。
- 論述形式試験の概要
- 論述の設問内容:刑事裁判に市民が参加する意義はどこにあるか、講義内容をふまえて論じなさい。
- 解答の形式:A3レポート用紙形式・字数制限無し。
- 試験時間:45分
■答案構成
5STEPで書く
議論の整理→日本における裁判員制度とは
問題発見→裁判員制度の意義が薄れている現状
論証→裁判員制度の導入目的から裁判員制度の意義を考える
解決策or結論→裁判員制度は「遵法精神が触発され、司法に対する一般市民の信頼感を高めるためにこそ存在する」
解決策or結論の吟味→不要
【議論の整理】
刑事事件に一般市民が参加することの意義について論じる前に、裁判の意義と裁判員制度の概要について、基本的な内容を確認したい。そもそも裁判の意義とは、国家権力など権威ある第三者が行う当事者間の紛争の裁定を指す。そして、その目的は、社会生活における利害の衝突から当事者の権利を保護し、紛争の解決を図ることにある。
ただし、刑事事件における裁判の目的は、当事者間の紛争の解決ではない。国家が予め法律によって刑罰を科すことを決定している行為を行った者への量刑を確定し、刑を宣告することが刑事裁判である。そして、日本の司法制度では、特定の刑事裁判に限り裁判員制度を導入した。その結果、刑事裁判に一般市民(有権者)が裁判員として参加し、裁判官と裁判員が合議の後に量刑の確定を行うようになった。裁判員制度の導入には、刑事裁判に参加することで司法への理解を深め一般市民の信頼感を高めることや、一般市民の意見や日常感覚を裁判結果に反映させることといった目的があった。
【問題発見】
しかし、制度の導入とともに、様々な問題も生まれている。まず、刑事裁判に一般市民が参加できるようになったといっても、当の一般市民が参加しているかと言えば、裁判員の刑事裁判への出席率は、年々下がり続けているのが現状である。また、「法律の専門家でないので、裁判に参加する自信がない」などといった理由により、有権者の多くが裁判員として裁判に参加することに前向きでないという制度運用上の問題点も浮上している。そのため、刑事事件において裁判員制度を導入したことへの意義を再検討することが必要になっている。
さて、こういったこれまでのいきさつを踏まえたうえで、刑事裁判に市民が参加する意義は、どのようなものがあるだろうか。以下に二点、検討を行いたい。
【論証】(裁判員制度導入の目的の視点から言い分方式で列挙)
第一に、「刑事裁判に市民が参加することで司法制度への理解を深め、一般市民の信頼を高める」ことができるかという点から考える。確かにこの点は、賛成できる。というのは、日常生活を送る上で、一般市民は通常、刑事裁判を傍聴することが全くなく、司法制度を理解する機会に恵まれていないからである。司法制度を理解する機会に恵まれていないことによって、実際に刑事事件に巻き込まれた際に、その後の犯人(被告人)がどのように国家権力によって処罰されるのかといった点について、テレビドラマなどを通してしかイメージできず、リアリティーを感じない一般市民が多いのではないかと思われる。
さらに、裁判員経験者の感想や、刑事裁判への参加体験も重要だ。ある裁判員経験者は、ネット上で、「殺人を犯した刑事被告人に手紙を読んで投げつけていた家族の悲しみをみて、実際に同様の犯罪を起こす気は全く起きなくなったし、犯罪が社会全体から減ってくれるほうがよいと心から思った」といった意見を述べていた。つまり、裁判員制度によって刑事裁判に参加することで、犯罪の悲惨さを知り、遵法精神が触発されたということだ。かくいう著者も、刑事裁判を傍聴した折に被告人が縄でつながれて出廷されてくる姿をみて、「文明人であっても、法律上の罪を犯すとこういった扱いしかされなくなるのだ」ということも痛感し、初めて国家権力の行使ということについてリアリティーを感じたことがある。さらに、法律に基づいて例外なく処罰される被告人をみて、司法制度の厳格さに安心感を抱いたものだ。こういった経験から、私は、「一般市民が刑事裁判に参加することで、遵法精神が触発され、一般市民の信頼感を高める」ことができると考える。
次に、第二点目として、刑事裁判に市民が参加することによって、「一般市民の意見や日常感覚を裁判結果に反映させること」が可能かどうかを検討する。この点には、異論がある。というのは、そもそも法律の専門知識を持たない一般市民が刑事事件の裁判に参加しても、犯罪の量刑を正しく判断できる保証は全くないためである。刑の種類や刑の期間を定めることには、裁判官による法律上の専門知識が必要不可欠だ。これは、日常的な感覚に近い判断で、刑事裁判の量刑を確定することができるかを考えてみればよくわかる。例えば、殺人を犯した人が仮にいるとする。殺人犯の凶悪度に応じて量刑をどうするか日常的に考えている人が日本人の何パーセントいるだろうか。おそらく皆無であるはずだ。つまり、刑事裁判の量刑の確定自体を一般市民の感覚によって行うこと自体に、大きな無理があるということだ。この問題点は、すでに裁判員制度が運用されてから「裁判に参加する自信がない」といった一般市民の意見によって裏付けされている。もし、一般市民の日常感覚に期待することがあるとすれば、例えば、重大で悲惨な殺人事件にて、裁判官が事件を見て「無罪」や「執行猶予付き判決」などを行って、あまりに軽い刑を決定した場合に、遺族の方の泣き崩れる様子をみて、一般市民が裁判官に不満を述べることができる程度だ。法律の専門知識を持つ裁判官の判断に口を挟んで議論を展開する一般市民がどの程度存在するかといえば、おそらく1%もいないのではないかと思われる。そのため、「一般市民の意見や日常感覚を刑事裁判の結果に反映させること」自体、制度設計上の無理があるのではないだろうか。
【結論】
以上の点から、刑事裁判に市民が参加する意義は、「一般市民の意見や日常感覚を刑事裁判の結果に反映させること」にあるわけではなく、「一般市民が刑事裁判に参加することで、遵法精神が触発され、一般市民の信頼感を高める」ことにあると考える。
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