横浜国立大学 教育人間科学部 2003年 小論文 第一問 過去問 解説

次の文章を読んで、後の設問に答えなさい。

I

世界の 41 国・地域が参加し実施された第3回目の国際数学・理科教育調査(1994〜95年実施)の一部結果を報じた新聞各紙記事(中学生:1996年11月21日、小学生:1997年6月11日)の見出しには、次のような言葉が躍っていた。

「数学と理科、世界最高水準」(『朝日新聞』)、 「日本の中2、成績3位」(『静岡新聞』)、「学力、日本の児童はトップレベル」(『毎日新聞』夕刊)

およそ10年ごとに実施されてきている国際教育調査の第3回調査結果に見られる平均得点順位は、中学2年生対象調査で数学・理科ともに第3位、小学4年生対象調査では算数が第3位、理科は第2位であった。1960年代から80年代にかけて実施された第1、2回の調査結果と同様に、日本の小・中学生の平均得点は、相変わらず世界のトップ集団の位置を確保し続けてきている。

だがその一方で、次のような見出しもまた注目しておかざるをえないものだった。「ただし論述は苦手」(『日本経済新聞』)、「OXは得意だけど記述問題はちょっと……」「成績はバツグンなんだけど勉強は『いや』」(『毎日新聞』)、「『嫌い』もトップクラス」 (『静岡新聞』)

日本の子どもたちは、 高い平均得点を上げているのにもかかわらず、問題を性格別 に見てみると「論述や記述問題が苦手」であるということや、学習に対する態度を尋ねた質問結果を見ると「理科も数学も嫌い」という傾向が他の国々の結果と比べて目立つということが指摘されている。そのような事実もまたこれまでの調査結果と同様であった。

1999年12月になって、この第3回調査の第2段階調査国内調査(中学2年生を対象にして1999年2月実施)の速報値がまとめられ、再び新聞各紙の記事(1999 年 12月8日付)となって報じられた。そこでは、共通問題の平均正答率はほぼ同じ水準であったものの、教科の好き嫌いに関しては数学・理科ともに嫌いが増え、とくに数学に関しては半数以上が「嫌い(嫌い:38 % +大嫌い:14%)」であったことが明らかとなった。また数学に対する意識でも、「数学の勉強が楽しい」は 38 % に対して「数学は退屈だ」が42%、「将来、数学を使う仕事がしたい」は 18 % と、さらに数学離れ・理科離れが進行していることも明らかとなった(『毎日新聞』『産経新聞』など)。
このような国際教育調査結果をもたらしてきた背景には、 1960年代以降、 高度経済成長とともにエスカレートしてきた受験体制下での学校における、 子どもたちの学習の実態とそこからもたらされてきた学力の実態がある。受験体制下で、学力の達成競争を強いられながら獲得してきた国際教育調査結果の高い平均得点の裏側で、学習と学力における次のような2つの歪みの特徴がうかがわれるのである。

その1つは学校の授業で獲得される知というものが多くの場合断片的な知識の集積 に終始して、そこで獲得される能力は、与えられた枠組みのなかで数字や記号や言葉を操作するだけの力に過ぎなくなっているのではないか、そしてその獲得された知というものは、教科の学習やあるいは学校のなかの学習の範囲内だけで完結してしまって、さまざまな事柄に対する子どもたち一人ひとりの見方とか構えというものを育んでいく力とはなりえていないのではないか、ということである。

学んでいる数字や記号や言葉がどのような現象や事実を意味しているのか、学んでいる操作がどのような理屈のもとで生み出されているのか、そういうことに思いを寄せ、「なるほどここはこういうことを意味しているのか」とか、「そうかこのやり方はこういう理屈だったのか」とか、そういうことを実感する間もなく暗記的な学習がどんどん進んでしまっているのである。

数年前に話題となったアニメ映画「おもひでぽろぽろ」のなかの一シーンはそのような実態を象徴的に描いたものとして印象深かった。少女時代の主人公タエ子ちゃんが、分数の計算試験で25点をとってしまい、お母さんに叱られ、 ヤエ子お姉ちゃんに教えてもらうことになった場面だった。ヤエ子お姉ちゃんはまず「九九を言ってごらん」と切り出すが、タエ子ちゃんが投げ掛けたのは「分数を分数で割るって、どういうことなの?3分の2個のリンゴを4分の1で割るなんて、どういうことか、全然、想像できないんだもの」という疑問だった。ヤエ子お姉ちゃんは説明に困ってしまって「とにかく、分数の掛け算はそのまま、割り算はひっくりかえすって覚えればいいのよ」と声を荒げてしまうのだった。

いま、学校のなかでそういうような教え方をしていることは、ほとんどありえないと思うし、教科書ももう少し丁寧な説明記述がされている。しかし多くの者たちが自らの学習体験を振り返るとき、そのようなシーンに共感することもまた事実であるように、結果として意味や理屈が抜け落ちたままで、ある公式や解き方のみが頭のなかに詰め込まれてしまっている。そういう学習体験実態の中で、ある大学生から「『数学』とは私の中では暗記であった。でもおそらく私だけではない。同じような問題を何度もやれば、『やり方』がわかって、こういう問題はこうやって式を立てて解けばよいということをマスターしていただけだった。数学はできるけれども嫌いな子は多い。自分の生活に生きてこない。数学は一番成績がよかったけれども、いつも『空回りしているなあ』と感じていた」という声があがってきた。このような声は、受験戦争を戦い抜けてきた多くの子ども・青年たちの共通の思いなのではないだろうか。

そのような実態こそ、非常に象徴的な言い方ではあるが、「意味や理屈の抜け落ちた学習」という表現で特徴づけることができ、その所産としての「日本型高学力」があるといえるのではないだろうか。

特徴の2つ目は、「楽しさや喜びの抜け落ちた学習」という点である。この点に関して、かつて筆者自身が高校生と大学生に実施した「学ぶということ」に関するイメージとその理由を問うた調査結果は印象的であった。

たとえば大学生では、「学ぶということ」は、「まるで山登りのようだ:なぜならば、険しい道も登りきったら爽快だから」とか、「マラソンのようだ:苦しい時もあり、楽しい時もある。またなかなかゴールが見えない。だけど達成したときの充実感、 満足感は格別だから」、あるいは「迷路のようだ:やる気があって、がんばってがんばって進めばゴールが見えるかもしれない」というものが多かった。いずれも学ぶことの苦しさを訴えながらも、大学入学というゴールに達した後の思いを吐露しているといえよう。

しかし、いまげんに受験勉強の渦中にいる高校生のものには、そのような達成感は未だ感じることができないために苦しさと虚しさばかりが読み取れるものであった。 たとえば「学ぶということ」は、「まるで通勤ラッシュのようだ:なぜならば、もういっぱいいっぱいなのに、まだどんどんと入ってこようとするから」とか、「コピー機のようだ:その時だけ写し取ってできても、コピーし終わった後、そのコピー機に情報が残らないように、頭に記憶が深く残らないですぐ忘れてしまうから」とか、あるいは「底なし沼のようだ:いくら学んでも尽きないうえに、苦痛だからだ」というものであった。

現代の高校生の「嘆歌」、嘆きの歌というものを集めた本が出ている。それは福島県の高校生の歌だそうだが、「一時間眠りもせずにじっとして終わりのベルを待つのも勉強」「俺だってツッパリたくもなりますよ一二年間わからぬ勉強」というような短歌が詠まれている。この「一時間眠りもせずにじっとして終わりのベルを待つのも勉強」と詠んだ高校生にとって、仮に数学の授業といえどもそこでは実は数学を学習していたのではなくて忍耐力を学習していたのではなかったのか。今日、そのような珍現象が生まれているのではないかとも思えるのである。あるいはまたかつて『朝日新聞』(1993年5月7日)に載り印象に残っているある高校生の投書の言葉、「どうしても腑に落ちないことが残るのです。それは、なぜ、教育を受けるというのは、こんなにもつらく、焦燥にかられるものなのかということです」という言葉に象徴されるような、今日の学校教育における「楽しさや喜びの抜け落ちた学習」の実態とその所産としての「苦役的学習観」とがあるのではないだろうか。

 

II

「学校知(school knowledge)」という用語は、本来、学校で教えられる知識が、 中立性を装いながらも、実は階層・人種・性などの社会的利害を反映している点を指摘する象徴的な言葉である。

しかし、近年、学校における学習で獲得される知というものを「学校知」と呼んで、その実体を批判的にとらえようとしている論議が高まってきている。

つまり学校における学習の中で獲得される「学力」は、一生懸命努力して獲得したとしても、学校の中だけでしか役立たないような力にすぎないのではないか。簡単にいってしまえばそのような獲得された「学力」と「知のあり様」を「学校知」と呼ぼうとしているわけなのである。その「学校知」と呼ばれているものに対し、 駒林邦男は、「受験手段性、交換性」と「学校課題性、 依存性」という特徴づけをしている。

たとえば1万円札を仮に手に入れていたとしても、お腹が空いてそれを食べたとしても腹の足しにもならないなど、それ自体はほとんど何の役にも立たない、 いわば「使用価値」がない。しかしそれを持ってスーパーなどに行き、自分の欲求を満たしてくれる1万円相当の必要なものと交換するやいなや多大な価値を生み出す。つまり「交換価値」を感じることができるのである。そういう意味では「学校知」も、それ自体は学習して獲得したにしてもほとんど何の役にも立たないが、しかしひとたび試験成績、入試合格、学歴などと交換するやいなや大きな価値が生まれ、その価値を実感できるわけである。そのような特性を「受験手段性、交換性」と特徴づけているのである。

もう1つの「学校課題性、依存性」という特徴は、次のような調査結果の一部を事例に語られている。小学6年生に、「1着58.5 kg の洋服があります。 これが4着あります。全部でなんkgでしょうか」という問題と「1.8 cmのヒモと、 0.5 cmのヒモがあります。かけると、どれくらいになりますか」という2つの問題を提示し、それらに対する子どもたちの反応を聞いた。その結果、最初の問題に関しては、 小学6年生39人中 82.1%、 中学1年 40人中 90.0% の子どもが「これは算数の勉強の時間につくった問題だから、ほんとうにはない 58.5 kgの洋服でも、おかしくない」という選択肢を選んだという。同じように後者の問題についても「これは 1.8×0.5で答えがだせるから、おかしな問題ではない」という選択肢を、小学生で 48.7%、中学生で30.0%の子どもたちが選んだという。つまりそれをうまく解決したとしても本来何の意味もない課題、学習者にとっては内発的な興味をひくものでもないし、それを解いたことが他の人々に役立つといった社会的意義を感じることもできないようなものに学習課題が歪められている。子どもたちも、本当にそんなことがあると信じてはいないものの、しかし「これは算数の問題だからおかしくない」というふうに割り切って問題の解答に向かうというところに「学校知」の「学校課題性、依存性」という特徴が象徴的に表れているというのである。

冒頭に紹介した国際教育調査結果について、「学校での学習を、試験勉強のための知識としかとらえていない。学問への興味や関心が失われており、ある種の学力低下のサインだ」とのコメントが日本数学会前理事長から寄せられている(『読売新聞』1999年 12月8日付)。

また、近年再び、大学生の「学力低下」と「学習意欲低下」を指摘する声が、とくに大学人を中心によく聞かれる。新聞やテレビでの特集記事・番組も目にするようになってきた。

文部省「大学教育への適応についての調査」結果によれば、入った大学で7割近い新入生は「理解困難な科目がある」と感じ、そのうち6割以上はその原因を自分の学力不足と考えていること、また大学教育に対しては「自分のやる気にかかっている」との答えが目立つ一方で、大学教員側の授業に対する無配慮を指摘する声も多いという(『内外教育』1999年2月9日付)。また予備校系の調査機関などの調査結果では、7割の大学・短大で新入生の基礎学力低下が問題になり、 3割の学校は「補習」を実施しているという(『朝日新聞』1999年5月 26 日付)。また、ある大学では今春の新入生から「やる気」、「能力」別のクラス編成を実施したと報道された(同4月19日付)。あるいはまた、大学入試センターが全国立大学学部長に実施した調査結果では、ここ数年の 新入生の学力について 51.2%の学部長が「低下している」と答え、その具体的内容として「自主的・主体的に課題に取り組む意欲が低い」(84.8%)、「論理的に思考し表現する力が弱い」(77.3%)、「必要な基礎科目の理解が不十分」(47.9%)、などが指摘されている(同5月 24 日付)。

このような大学生の「学力低下」問題をはやくから指摘した苅谷剛彦は、高校生の学校外での学習時間が大幅に減少(平均値で1979年の1時間37分から 1997年の1時間12分へと25分間の減少)し、そのことが学力低下につながっている可能性があること、その背景には少子化や大学入試制度の多様化などによる受験プレッシャーの減圧があること、さらに学校教育の「ゆとり」政策も絡んで学習時間の階層差が拡大し、階層間の学力差が増幅していることを指摘している。

もちろん学生だけを責めるのはあまりにも一方的であろう。大学教員の授業方法・内容のくふうのなさがあるだろうし、大学入試科目の削減や軽量化、 あるいは入試制 度の多様化の一環としての推薦制度の大幅な拡大などによって必要な高校教育科目を学習しないままに入学するということも影響しているからである。しかし、その大きな背景には、上述してきたような高校までの学校学習の実態などがあることは否めないのではないだろうか。

1989年の学習指導要領改訂によって、いわゆる「新しい学力観」が打ち出され、「学力」に関しては知識・理解の認知面だけでなく関心・意欲・態度といった情意面まで も含み込み、「学力」の「基礎・基本」に関しても知識の内容面だけではなく一般的な思考力や問題解決力などまでも意味するとの見解が拡がっていった。そして、 1998年の同上改訂では、「自ら学び考える力などの『生きる力」を教育目標に据え、それを育む象徴的なものとして「総合的な学習の時間」を新設する方針を打ち出した。

この「総合的な学習の時間」をめぐっては、現在、さまざまな実践と議論が生み出さ れつつあるが、それらを実りあるものとしていく上で今一度「新しい学力観」をめぐっての総括的な再検討が必要であると考える。

文部省は、1994年2月に「教育課程実施状況に関する総合調査研究」の一環として、全国の公立小学校第5、6学年の児童を対象に「平成5年度小学校ペーパーテスト調査(国語と算数)」を実施した。「その問題内容は、一部しか公表されていないが、従来の「おなじみのパターン」問題だけでなく、考え方の過程や多様性をとらえようと努力したことがうかがえる問題も見受けられた。その一方で、次のような算数の問題に関しては、学校現場でのその受け止め方も含めて、大いなる疑問を残すものとなった。

 

この問題の「どちらの考えが好きですか」という問いかけ自体もさることながら、この問題を評したある小学校長の認識にはさらに疑問を感ぜずにはいられなかった。

すなわち、その小学校長は、およそ次のように述べていた。

3冊の本を1冊およそ 3000円とみなして買えると答えた子どもは、「論理的に考えを進めることより、直感的なひらめきで物事を処理する傾向が強い」、「一見落ち着きがないが、生活力があり、活動的である」、いわば「ガキ大将」組の子どもたちである。それに対してこれまで算数ができるといわれてきた子はおよそで答えを見当づけることをしないで、すぐ計算で処理しようとする。どちらの子どもたちに「数学的センス」があるかといえば、「ガキ大将」組の子どもに軍配を上げる、と(『現代教育科学』 1994年9月号)。

確かにその小学校長もいっているように、 従来の「算数」学力は、早さを競う計算力や解法テクニックの量を競う問題処理力のみに傾いたものであった。多くの場合、そ のような「学力」が、受験算数・数学には有効であり、必要ともされてきたからである。そのような実態を打開し、克服していくためには、一体どのような方向を取れば良いのかという問題意識は上の小学校長と共有しながらも、打開・克服の方向性の点で、大きな疑問を感ぜずにはいられなかったわけである。

なぜならば、上で見たような問題においては「正確・厳密に計算する力」だけではなく、「見積もる力」とか「概算で処理する力」といったようなものの大切さが念頭におかれているのではないかと推測されるが、本来一番大切なのは、「どのような状況・場面において、どちらの処理のしかたが有益なのか、どちらを選択すべきなのか」、その主体的判断なのではないだろうか。いかなる状況・場面にもかかわらず、いつもいつも細かく厳密に計算することしかできない(あるいはその逆である)とか、あるいは細かく厳密に計算しなければならない状況・場面に直面してもそれに対応する計算力がないとか、というようでは困る。

だから、最も大切なことは、「どちらの考えが好きですか」ということでもなければ、ましてや状況・場面にかかわらずいつでも概算を「好む」子の方が「数学的センスがあるのだ」ということでもないわけなのである。ここには、教科学習によって獲得されるべき「学力」の中身の誤解と混乱が見られるのである。

 

学校での子ども社会において、相変わらず「いじめ」とそれを苦にした自殺は後を絶たない。加えて最近では、「学級崩壊」という言葉に象徴される現象が目立つようになり、小学校低学年からもはや授業そのものが成り立たないような状況が生まれてきている。

子どもたちの心のなかに蓄積されてきた「イライラ」と「ムカツキ」がここにきて一気に爆発してきたかのようでもある。若い教師たちのみならず、教職歴の長いベテラン教師たちもそれまでの実践経験がほとんど通用せず、どのように対処したらよいのかわからず困惑のなかに投げ込まれてしまっている。

そのような学校状況に直面し、「心の教育」の重要性が語られ、学習面においても 「生きる力」を育むことが重視されてきている。教育課程の改定でも、「総合的な学習の時間」が打ち出され、体験的で問題解決的な学習方法と現実生活と結びついた学習内容の提起が行われてきており、多くの学校現場の関心も一気にそちらの方向に向かい始めているかのようである。

しかし上述したように、学校生活の約8割を占める教科学習において、「なるほどここはこういうことを意味しているのか」とか、「そうかこのやり方はこういう理屈だったのか」とか、そういうことを実感する間もなく暗記的な学習がどんどん進んでしまって、問題が解けても「わかった」という思いももてずに「空回り」感ばかりが膨らんでいく。また、子どもたちにとって「辛く苦しい」、「学ぶ意味も感じられない」、 いわば「苦役」となっている。この現実問題を素通りして「心の教育」を語り、「生きる力」を育み、そして「総合的な学習の時間」を構想することなどできようはずもない。そういう意味では、わかる喜びや学ぶ楽しさを実感できる学習体験こそが、自分でも押さえることのできない「イライラ」や「ムカツキ」を癒し、自分の周囲の人々や社会・自然の現象に思いをはせる心を育成していく根っ子のところに位置している。

社会科で「フランス人権宣言」や「日本国憲法」を教材として「人権」ということを学んでも、その授業終了のチャイムが鳴り、休み時間に入った途端に学級内でいじめが起こるという実態を目の当たりにしたとき、教師はいい知れぬ虚しさに襲われる。「いま私の行った授業は一体どんな意味があったのか」と。そこには、「学力」形成と「人格」形成との乖離という深刻な問題があらわになっている。

島崎隆は、出来上がった知識を算出する思考のあり方としての「知」には「技術知」と「思想知」の2種類があると述べている。前者が「道具としての知」であり、その場合の知識はその所有者であるはずの「<私>とは別のもの」であり、「知識の直線的拡大」が 目指されるものであるのに対して、後者は「<私>の人格の中心」にあって、「<私> の生き方を支えたり、歪めたりするものである」としている。そして後者のような「知識がたえず<私>に反映するような知のあり方が重要」であり、そのような「思想知」として後のあり様は、「世界の認識が絶えず自分の認識(自己認識。 自覚)へと還帰する性質」をもち、「<私>の問題意識から発した知識が、対象からさらに再び<私>へというように、 円環的に帰ってくる」、すなわち「自然界と社会についての客観的知識」が、「ここにこうして立っている<私>という存在の主体的自覚へと転化」するものととらえられている。

上で一例としてあげた社会科学習に象徴されているように、現代の学校における学びのほとんどが、「技術知」としての学びに終始している今日的状況があるのではないだろうか。本来の学習行為(学校においてはその主要なものとしての教科学習)は、周囲に存在している自然や社会の世界を認識するという活動を通して、その結果として、新しい見方や考え方のできるようになった自分自身に気づき、目の前に今までとは違った姿として現れてくる自然や社会の世界とに出会うことである。そのことがまた、学ぶということの楽しさや喜びをもたらすのであるといえよう。その両者をつなぐ回路を創り上げることが授業づくりであり、それは単純でもないし、一様でもないであろう。

いま、「日本型高学力」と「苦役的学習観」からの脱皮を求めてさまざまな教育改革と授業改善が試み始められようとしている。とりわけ、「生活科」や「総合的な学習の時間」の創造、 あるいは各教科における学習内容や形態の抜本的な改善など、「活動」や「体験」などを大胆に取り入れたものが多くなってきている。そしてその際に常に問われることは、「活動しっぱなしではないか」や「体験が物事の確かな認識に結びついていかない」という問題である。

「いろいろな形の活動的な仕事を学校へと導入する」ことによって旧来の学校生活全体の転換を図ろうとしたデューイ (Dewey、 J.)も、主著『学校と社会』において、さまざまな「仕事 (occupation)」を中心にして学校での授業が構想されねばならないことを説いているが、その彼が提起した校舎の概念図には、四隅の作業室などを結ぶ中心に図書室が位置づけられている。そしてそのことの意味を次のように述べている。

「それ(教室)は、子どもたちが、経験したことや問題や疑問や自分たちが見つ

けだした具体的な事実やらをもちこんでくる場所であり、また、それについ

て議論がなされ、その結果、それらに対して、新しい光が、とりわけ、他の

人々の経験、積み上げられた世界中の知恵――図書室に象徴されているもの

であるがー というものからの新しい光が投げかけられる場所なのである。」

子どもたちが取り組む活動や経験と「他の人々の経験、積み上げられた世界中の知恵というものからの新しい光」とが、どのように結びついていくのか、あるいは逆にその「新しい光」に子どもたちの目を見開かせていくにはどのような活動や経験が授業・学校に持ち込まれるべきなのか、まずこの点での集団的な検討が必要であることを、デューイのこの言葉から読み取らねばならない。

小学校から大学まで、学ぶということの本質は同じであろう。少なくとも、学ぼうとする対象の認識ということを素通りした活動や体験、対象の認識ということが抜け 落ちた活動や体験からは、 一般的な「思考力」や「問題解決力」、あるいは「関心・意欲・態度」や「生きる力」、さらには「心の教育」や「人格形成」さえも生みだしえない し、学校や授業に対する信頼もまた回復しえないのではないだろうか。

(山崎 準二「学力の現状と構造を考える」による)

 

問 1.

本文に述べられている、学習と学力における歪みの特徴について、200字以内で説明しなさい。

議論の整理→冒頭

問題発見→2つの論点を整理

論証→不要

解決策or結論→不要

解決策or結論の吟味→不要

 

議論の整理

学習の特徴は二つで、「意味や理屈の抜け落ちた学習」と「楽しさや喜びの抜け落ちた学習」である。

問題発見

前者は、学習が断片的な知識の集積に終始することを指す。結果として、与えられた条件下で問題を解く能力だけが特化する「日本型高学力」を生む。後者は、がんばった結果として得られる楽しさや喜びを知る前に、授業を寝ずに耐える、とにかく知識を詰め込むという学習を指す。その結果が、「苦役的学習観」につながる。

計194字

 

問2.

「学力」の中身の誤解と混乱は、なぜ起きていると筆者は考えているか、 100 字以内で説明しなさい。

議論の整理→不要

問題発見→問題文

論証→解答

解決策or結論→不要

解決策or結論の吟味→不要

 

「学力」は知識・理解の認知面の他に関心・意欲・態度といった情意面を含み、その基礎・基本は知識の他に一般的な思考力や問題解決力を含むという「新しい学力観」が打ち出されたが、その解釈が曖昧であるため。

 

計98字

 

問3.

筆者の言う「学ぶということ」について、筆者の論点を踏まえながら、これまでのあなた自身の学びを振り返りつつ、 あなたの考えを700字以内で述べなさい。

議論の整理→主張内容をまとめる

問題発見→生じる問題を記述

論証→具体例を交えた原因

解決策or結論

解決策or結論の吟味

 

議論の整理

私は、日本型高学力に適応し苦役型学習に耐えられる側のみを優秀とみなすのではなく、そうではない側も正しく評価する教育システムを作るべきだと考える。

問題発見→生じる問題を記述

学校は最初に社会生活を営む場所だ。そこで、他者と比較され、承認欲求が満たされる感覚を初めて知る。ただ、現在の学習制度だと、苦役型学習に耐えられた学生が高評価、そうではない学生は低評価を下される。その結果、承認欲求をこじらせるケースが多々生まれていると考える。

論証→具体例を交えた原因

私自身を振り返ると、いわゆる日本型高学力を得て、苦役的学習観の中に楽しさを見出せた側だ。しかし、生活力があり活動的な「ガキ大将」組のようなセンスは持ち合わせていない。アルバイトなどの場で社会に出た時に評価を受けるのは生活力がある側で、私のような側の人間は「勉強しかできない」という低評価を受けるのである。高評価を下された側が順風満帆に生きていけるかというとそうではない。

解決策or結論

そのような発言が生まれるのは、学校教育の場で苦役型学習に耐えられない層が正しい評価を得られないからだと考える。たまたま耐えられた側が高評価を受けると、その裏返しとして劣等感を抱くことが想定できる。結果として、評価基準が変わった時に、優秀層に対する非難めいた感覚につながるのではないか。こちらとしても、自分が優秀というより、たまたま学習環境に適応できただけだと感じている。だからこそ、生活力がある側を正しく承認してほしいと考える。

解決策or結論の吟味

結論、総合的学習における評価基準を明確に定め、個性をもっと評価する制度が必要だ。学校生活の中で自己承認感を得られないと、筆者が文中で言及していたように、人格形成に悪影響を及ぼすのではないだろうか。

計699字

 

私自身を振り返ると、いわゆる日本型高学力を得て、苦役的学習観の中にも楽しさを見出せた側である。しかし、生活力があり活動的な「ガキ大将」組のようなセンスは持ち合わせていない。アルバイトなどの場で社会に出た時に評価を受けるのは生活力がある側で、私のような側の人間は「勉強しかできない」という低評価を受けるのである。

 

そのような発言が生まれるのは、学校教育の場で苦役型学習に耐えられない層が正しい評価を得られないからだと考える。たまたま耐えられた側が高評価を受けると、その裏返しとして劣等感を抱くことが想定できる。結果として、評価基準が変わった時に、優秀層に対する非難めいた感覚につながるのではないか。こちらとしても、自分が優秀というよりは、たまたまこの学習環境に適応できただけだと感じている。だからこそ、もっと生活力がある側を褒めて、承認してほしいと考える。

 

結論、総合的学習における評価基準を明確に定め、個性をもっと評価する制度が必要だ。学校生活の中で自己承認感を得られないと、筆者が文中で言及していたように、人格形成に悪影響を及ぼすのではないだろうか。

 

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