慶應義塾大学SFC 総合政策学部 小論文 2008年 解説

問1 教育する者(親・教師)と学習する者(子供・生徒)の関係について、資料1、資料2、資料3のそれぞれから読み取れるカント、デューイ、アーレントの考え方は、どのような点で共通し、どのような点で食い違ったり、対立したりしていますか。900字以内で記しなさい。

問2 教育する者(親・教師)と学習する者(子供・生徒)の関係をめぐって、資料1、資料2、資料3を参照しつつ、資料4についてのあなたの考えを600字以内で記しなさい。

・ 問題の読み方

 問一はおそらく3人の考え方の共通点を書き、その後それぞれの相違点を書くのが望ましい。一見むずかしいように見えるが、最初に三行ぐらい明けておき、そこに記述すれば良いので実は楽である。

 ただし、それができない場合は
a-1. AとBの共通点
a-2. AとBの相違点
b-1. BとCの共通点
b-2. BとCの相違点
c-1. CとAの共通点
c-2. CとAの相違点
という形で書くと良い。

 問二にかんしては、生徒と教師が対等であるという課題文4の考え方を、教師は権威を持つべきであるというという課題文1・2・3の考えによって批判する構成が良い。

・ SFC小論文で求められている解答への指針

 残念ながらこの小論文に関しては、SFC特有の学際領域からの検討を生かす要素がない。しいて言えば、問二でさまざまな角度から考え方を精査する程度しかSFCでいい小論文を書くすべがない。

・ 模範解答

「問1」(120/200)

共通の前提(20/120)……

共通して言えること10点、資料1からの論拠5点、資料2からの論拠5点、主語・対象語・動詞抜け、漢字間違い、送り仮名間違い(-1)、論理飛躍各-1、接続詞、体言止め、文法・漢字・送り仮名ミス-1

資料1と資料2に関して共通していることは、「教育の最終的な役割とは、子どもを社会に出ても通用する人間にしていくことだ」ということだ。資料1には、「教育をもって、人間が動物的衝動によって人間性から逸脱しないようにする」という内容が書かれている。そして資料2では、「教育によって、子どもは、単に衝動的な発現のままに任せられることをやめる」と述べられている。どちらも、子どもが思いついたことをただ実行するだけになることを避けさせようとしている。

……下記の記述を根拠にしている。

資料1

 人間は教育を受けて初めて人間になることができる。人間とは,教育が素材の状態にある「人間」から作り出すものにほかならない。犬や馬を疑けることが可能なように,人間もまた射けることができる。しかしながら射けることだけではまだ十分ではないのであって,とりわけ重要なのは子どもがみずから思考することを学ぶことである。

 訓育とは,ある人間が動物的衝動によってみずからの本分である人間性から逸脱することがないように,予防することである。たとえば,人間が激情に駆られたり思慮を欠いたりして危険をおかすことがないよう,人間に制約を課すことになる。したがって,訓育は消極的なものであって,つまりは人間から野性的な粗暴さを取り除く行為にすぎない。それに対して知育こそ教育の積極的な部分だといえる。訓育は子どもの頃から早期に行わなければならない。そこで子どもはまず最初に学校に送られるが,それは必ずしも学校で何か知識を学んでほしいからではなく,むしろ静かに着席するとか,指示されたことをきちんと守るとかいった習慣を身につけさせよう,将来子どもが思い付いたことを何もかもむやみにすぐ実行するようになることを避けよう,といった意図によるのである。(中略)​

資料2

 理想的な家庭,すなわち,両親が聡明で,子どものために最も善いものを見分け,必要なものを与える能力をもっているような家庭が,ここにあるとしよう。そんな家庭では,子どもは,家族のあいだの世間話やその家族のしきたりをとおして,物事を学ぶにちがいない。子どもはいろいろと発言するだろう。親子のあいだで質問が交わされ,さまざまなことが話題となり,かくして子どもは不断に学習する。子どもは自分の経験を語り,自分が考え違いをしていれば訂正する。さらに,子どもは家庭のいろいろな仕事に参加することで,勤勉,秩序,および他人の権利と思想を尊重する習慣を養い,さらには,自己の活動を家庭全体の利害に従属させるという基本的な習慣も身につける。理想的な家庭であるからには,当然仕事部屋があって,子どもはそこで構成的な本能を働かせることができるにちがいない。小さな実験室もあって,その実験室で子どものさまざまな疑問が解答へと導かれるであろう。子どもの生活は戸外に向かって拡大し,庭園にまで,近くの田園や,森林にまで至る。子どもは,遠足に出かけ,歩き,語る。そのとき,戸外の広い世界が彼の前に開かれるであろう。

 子どもはすでに走りまわり,ものをひっくり返し,あらゆる種類の活動を始めている。子どもはすでに激しく活動的であるのだから,教育とは子どもの諸々の活動をとらえ,それらの活動に方向づけを与えることなのである。指導によって,つまり,組織的に取り扱われることによって,子どもの諸々の活動は,散漫であったり,単に衝動的な発現のままに任せられていたりすることをやめて,諸々の価値ある結果へと向かうのである。​

議論の論点(20/120)……

違いの部分10点、資料1の論拠5点、資料2の論拠5点、主語・対象語・動詞抜け、漢字間違い、送り仮名間違い(-1)、論理飛躍各-1、接続詞、体言止め、文法・漢字・送り仮名ミス-1

しかしその教育の方法について違いがある。資料1においての教育は、強制的でなければいけないことを主張している。対して資料2の教育は、子どもを最大限自由にさせ、その中で子どもの活動に方向性を与えていくべきだと主張している。

……以下の記述が根拠になっている。資料2については、先に述べた通り。

資料1

 学校は強制的な教化の場である。あらゆることを遊びと見なすように子どもを習慣づけてしまうのは,きわめて有害である。子どもは休息する時間を持たなければならないが,子どもにとっては作業をする時間も必要である。子どもは何のためにそうした強制が有益なのかをすぐには洞察できないにしても,将来的にはその強制が非常に有益であることに気が付くであろう。「これは何のためになるのか,そしてまたそれは何のためなのか」という子どもの問いかけにつねに一つひとつ答えようとするならば,子どもの無遠慮な好奇心をいちじるしく助長するだけであろう。教育は強制的でなければならないが,しかしそうであるからといって奴隷的であってはならないのである。

共通の前提(20/120)……

共通して言えること10点、資料1からの論拠5点、資料2からの論拠5点、主語・対象語・動詞抜け、漢字間違い、送り仮名間違い(-1)、論理飛躍各-1、接続詞、体言止め、文法・漢字・送り仮名ミス-1

資料2と資料3を見てみても、教育の最終的な役割として、子どもが社会に出ても通用するような人材にするという部分は共通している。

……以下、資料3について述べる。

資料3

 教育をどう営むかによって、われわれが子供たちを十分に愛しているかどうか、すなわち、子供たちをわれわれの世界から追放して本人たちの好き放題にさせるようなことをせず、そしてまた、何か新しいこと、われわれが予見し得ないことを企てるチャンスを子供たちの手から奪うこともなく、あらかじめ子供たちに、共通世界を刷新する任務への準備をさせることができるかどうかが決まる。

議論の論点(20/120)……

違いの部分10点、資料1の論拠5点、資料2の論拠5点、主語・対象語・動詞抜け、漢字間違い、送り仮名間違い(-1)、論理飛躍各-1、接続詞、体言止め、文法・漢字・送り仮名ミス-1

資料2では、そのための方法として、「教育において子どもの生活は最大限自由にさせて、その上で子どもの活動に方向性を与える」と述べられている。しかし資料3はこれを批判している。遊びと勉学との区別を出来るで限り消し去ったことが、教育の危機を招いたからだ。

共通の前提(20/120)……

共通して言えること10点、資料1からの論拠5点、資料2からの論拠5点、主語・対象語・動詞抜け、漢字間違い、送り仮名間違い(-1)、論理飛躍各-1、接続詞、体言止め、文法・漢字・送り仮名ミス-1

資料1と資料3を見ても同じように、教育の最終的な役割として、子どもが社会に出た後も通用する人材にしていかなければならないということが述べられている。

議論の論点(20/120)……

違いの部分10点、資料1の論拠5点、資料2の論拠5点、主語・対象語・動詞抜け、漢字間違い、送り仮名間違い(-1)、論理飛躍各-1、接続詞、体言止め、文法・漢字・送り仮名ミス-1

しかしここでも、そのための方法として意見の食い違いが起きている。資料1における教育または学校の役割とは、「奴隷的になってはいけないが強制的に子どもを強化することだ」ということである。資料3は、この資料1の意見を批判してはいない。資料3では、「学校の役割とは、子どもたちに世界はこのような場所だということを教えることであり、生きる技法を教えることではない」と書かれている。
以上を踏まえると、資料全体では、教育の最終目標は同じであるが、そこにたどり着くまでの教育の方法論について意見の違いが生じている。

……ここで、資料3の立場を紹介する。

資料3

 新しい学習理論は遊びを重視し,遊びと仕事(勉学)との区別をできるかぎり消し去ることに特別の重要性を与え,それによって教育の危機を招いた。遊びは,子供が世界のなかで行動するにあたって,最も生き生きとし,かつ最も本人にふさわしいあり方であり,また子供としての存在から自発的に展開される唯一の活動形態であると見なされた。旧来の学習は子供に受け身の態度を強い,子供本来の遊びのイニシアティヴを断念させてしまう,と批判された。

「問2」(80/200)

議論の整理(10/120)……

資料4の説明3点、その理由3点、資料1,2,3との対比4点、主語・対象語・動詞抜け、漢字間違い、送り仮名間違い(-1)、論理飛躍各-1、接続詞、体言止め、文法・漢字・送り仮名ミス-1

この資料4では、先生と生徒は対等の立場に立っている。この方法を取ることによって、子どもを社会の一員として自覚させ、子どもを既存の社会の中に引き込ませていくことはできる。

……資料4に関しては諸事情から引用できない形になっているので引用しないが、概ねこのような立場を採った文章である。

問題発見(20/120)……

問題提起ができていれば20点、主語・対象語・動詞抜け、漢字間違い、送り仮名間違い(-1)、論理飛躍各-1、接続詞、体言止め、文法・漢字・送り仮名ミス-1

しかし、先生と生徒が対等の立場に立ってしまうことには問題がある。

論証(30/120)……

資料1,2,3からの考え各5点、資料4の懸念点15点、主語・対象語・動詞抜け、漢字間違い、送り仮名間違い(-1)、論理飛躍各-1、接続詞、体言止め、文法・漢字・送り仮名ミス-1

なぜ先生と子どもの目線が同じではいけないのかというと、子どもが先生に対して敬意を払わなくなるからだ。資料3にも書かれているように、教育者には権威がある。それによって子どもたちは先生の話を聞いている。しかし、先生と生徒が同じ目線になると、教育者の権威がなくなってしまう。結果的に、生徒は先生の話を聞かなくなる。先生からの指摘の言葉さえも聞かなくなってしまう。そうすると、学校の中でいじめが蔓延してしまう。力のある人が、力の無い人をいじめるようになる。それは注意をするべき人がいないからだ。

解決策or結論(10/120)……

結論10点、主語・対象語・動詞抜け、漢字間違い、送り仮名間違い(-1)、論理飛躍各-1、接続詞、体言止め、文法・漢字・送り仮名ミス-1

暴力が蔓延してしまうような状態を考えると、先生と生徒は対等の立場であるべきではない。

解決策or結論の吟味(10/120)……

他の解決策との比較5点、利害関係者検討5点、主語・対象語・動詞抜け、漢字間違い、送り仮名間違い(-1)、論理飛躍各-1、接続詞、体言止め、文法・漢字・送り仮名ミス-1

教育者としての権威を固持し、「あの先生を怒らせてはいけない」と子どもに思わせるような存在がいることが重要だ。その方が、教育機関としての役割を果たすこともでき、勉強する環境が整った学校を作ることができるからである。

……この文章に関しては、多くの人が背景知識が無くとも普遍的に言及することのできるものなので、このような形の記述で良い。

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