v0k03120
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設問
問1
「安楽への隷属状態」とはどのような状態であるのか、下記の文章を参考にして説明しなさい。(400字以内)
問2
その上で、「高度技術社会」を象徴する具体的な例を挙げながら、「安楽への隷属状態」に対するあなたの考えを述べなさい。(600字以内)
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答案構成
問1
はじめに「安楽への隷属状態」がどのような状態であり生活態度であるか、結論を述べる。次にその根拠や、より詳しい説明・言い換えとして、「安楽への隷属状態」のメカニズムを述べると良い。
問2
はじめに議論の整理・問題発見として「安楽への隷属状態」の定義およびその問題点を簡潔に述べる。次に、論証として「高度技術社会」に触れて、具体例を記述する。そして、自身の考えとして、上記の具体例とともに問題点を具体的に述べる。さらに具体例から生じる具体的な結果を述べたうえでこのことを吟味する。その際に自身の考える解決策or結論に触れるとなお良い。
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答案例
問1
結論・総論
「安楽への隷属状態」とは現代に生きる人間が「安楽」を人生・生活における第一義的な目標として最優先するようになった生活態度である。すなわち、何事も「安楽」に寄与しうるか否かで判断されるようになり、さながら「安楽」が人間にとってのすべての価値を支配している状態である。
根拠・言い換え
これは、技術の進歩とともに人間が大きな利便性を手に入れたことに端を発する。そして人間は不愉快への恐れから、その源である物事そのものを高度な技術を用いて排除しようとする。このとき、人間は不愉快と対峙することすらなく「安楽」を追求することに取りつかれてしまう。このために、不快と対峙したうえで満たしていく本来の「快楽」ではなく、不快を排除していった上での不快の欠如態としての「安楽」を強迫的に追い求めてしまう。そして人間は技術のもたらすこのような面を顧みないままひたすら「安楽」を求めて現代を生きるのである。
「安楽への隷属状態」とは現代に生きる人間が「安楽」を人生・生活における第一義的な目標として最優先するようになった生活態度である。すなわち、何事も「安楽」に寄与しうるか否かで判断されるようになり、さながら「安楽」が人間にとってのすべての価値を支配している状態である。これは、技術の進歩とともに人間が大きな利便性を手に入れたことに端を発する。そして人間は不愉快への恐れから、その源である物事そのものを高度な技術を用いて排除しようとする。このとき、人間は不愉快と対峙することすらなく「安楽」を追求することに取りつかれてしまう。このために、不快と対峙したうえで満たしていく本来の「快楽」ではなく、不快を排除していった上での不快の欠如態としての「安楽」を強迫的に追い求めてしまう。そして人間は技術のもたらすこのような面を顧みないままひたすら「安楽」を求めて現代を生きるのである。(384字)
問2
議論の整理
「安楽への隷属状態」とは生活において「安楽」を最優先すべき価値と考えて「安楽」を半ば強迫的に追求すると同時に不快を生み出しうるものをすべて排除しようとする状態である。
問題発見
このような状態は、常に「安楽」喪失への恐怖に取りつかれる。
論証
そして背景には「高度技術社会」と呼ばれる現象が存在する。すなわち、いかに不快を排除するかという観点のみから技術の高度化とその受容が行われて、快楽の本質の喪失を気にすることはない。
原因の具体例
とりわけ現代においては消費社会と呼ばれるようにモノの大量消費が一般化している。例えば、私たちはいつでもコンビニエンスストアで簡単に飲食物を買うことができ、割りばしがサービスされる。
その結果
これらは目先の便利さを満足させるが、その背後では水や木材、電力など多くの資源が際限なく利用されている。そして、我々はいつでもどこでも自分の好きなものを手に入れることができる状態を当たり前と感じてしまう。同時に、利便性の欠如をひたすら恐れて、便利さを享受する幸福を忘却してしまうのである。
結果の吟味・検討としての解決策or結論
このような「安楽への隷属状態」に対して、私はフェアトレードのように便利さの背後にある正当なコストを意識できる仕組みが必要だと考える。なぜなら、欠如によって恐怖ともに逆説的に意識される「安楽」とは異なり、コストと便益を比較して自ら選択する行為こそ、充足とともに意識され、人間に本来内在する「快楽」の存在に適合的だからである。
「安楽への隷属状態」とは生活において「安楽」を最優先すべき価値と考えて「安楽」を半ば強迫的に追求すると同時に不快を生み出しうるものをすべて排除しようとする状態である。このような状態は、常に「安楽」喪失への恐怖に取りつかれる。そして背景には「高度技術社会」と呼ばれる現象が存在する。すなわち、いかに不快を排除するかという観点のみから技術の高度化とその受容が行われて、快楽の本質の喪失を気にすることはない。
とりわけ現代においては消費社会と呼ばれるようにモノの大量消費が一般化している。例えば、私たちはいつでもコンビニエンスストアで簡単に飲食物を買うことができ、割りばしがサービスされる。これらは目先の便利さを満足させるが、その背後では水や木材、電力など多くの資源が際限なく利用されている。そして、我々はいつでもどこでも自分の好きなものを手に入れることができる状態を当たり前と感じてしまう。同時に、利便性の欠如をひたすら恐れて、便利さを享受する幸福を忘却してしまうのである。このような「安楽への隷属状態」に対して、私はフェアトレードのように便利さの背後にある正当なコストを意識できる仕組みが必要だと考える。なぜなら、欠如によって恐怖ともに逆説的に意識される「安楽」とは異なり、コストと便益を比較して自ら選択する行為こそ、充足とともに意識され、人間に本来内在する「快楽」の存在に適合的だからである。(595字)
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