早稲田大学 教育学部 外国学生入試 志望理由書 提出例(中嶋隆ゼミ向け)

■議論の整理

小説はいつから小説家の物になったか。ロラン・バルトが「作者は死んだ」とつぶやいても、その言辞が逆にそのテクストの織物を生み出した作者の逆説的な特異性を浮き立たせる言葉として響く現代の研究状況にあって、もう一度小説家とは何かを考え直す時期に来ているかもしれない。

 

■問題発見

そう考えた場合、小説はいつから小説としての地位を確かにしたかという問いを立てることは有効だろう。小説が小説であることを主張し始めるのは、言葉が内面を表しているという虚構が成立してからにすぎず、それが日本であれば言文一致体によって、言葉がこころを指し始める明治時代であり、そのことを評して柄谷行人は「内面の発見」「風景の発見」と言ったのであったが、とすれば、明治以前は小説は小説ではなかったということになりはしないだろうか。

 

■論証

江戸時代の仮名草子など、小説作品は演劇との交流があるものが多い。浮世草子などの演劇作品とその脚本の関係を見ても明らかだ。とすれば、この時には小説は小説家のものではなく、相互交流的な(いやむしろ小説の従属性があった)様子が見受けられるだろう。

 

■結論

現に、元禄末期の浮世草子の脚本には、役者評判記の記事をそのまま転載したものや、訳者の定紋を転用するなどの相互交流がみられる※1。そのとき脚本は、当時の言説(評判)とともにいくらでも作り変えられるものであり、流動的なテクストだったわけだ。テクストは役者とその役者を愛する評論家と、その役者をほめることで動員できる観客と、そしてそれをうまく利用する脚本家との間の協働性を示す符牒である。ここに作家はいるかといわれれば、いるともいえるし、いないともいえるのだ。

 

■結論の吟味

もう一度、初めの問いに戻って考えてみると、作者とは誰か、それは作者とは誰かと考える私たちの意識の中にある制度である。私たちは作者がいたほうが都合がよく、作者がいたほうが作者の意図を考えやすいから、そして作者の意図を考える教育を受けているからこそ要請される近代的個人である。だがその近代的個人は、昔はちがったのだという事実を私たちはどのように受け入れ、その解放感を継承していくべきか。以上のような作者とテクストをめぐる状況布置を考察してみたいと考え、貴学への入学を希望する。

 

※1中嶋隆「元禄末期の浮世草子と役者評判記」『国語研究』7 横浜国立大学国語国文学会 1989

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