■議論の整理
海外文学の翻訳書を読んでいると、本当に自分が言葉の意味を理解できているのか不安になることがある。その物語が書かれた場所で生きていない私は、そこに書かれていることを追体験できない場合が多い。そのため、日本語ではじめから書かれていた文学を読む際のような共感を、海外文学に対してもすることは簡単ではないように思う。書かれている単語1つを取っても、注釈を読まなくては真意を理解できないこともあれば、注釈を読んだとしてもピンとこないこともある。
■問題発見
言葉を話す時、その背後にある話者にとっての「あたりまえ」を理解しなくては本当の意味での理解はできないのではないだろうか。
■論証
日本語であっても、日常的な会話の中にその時々に話題になっているニュースが登場したり、日本の歴史や伝統文化を前提とした物言いをしたりすることがある。これらの言葉の真意を日本語が母語では無い人に伝えることは難しい。日本人同士であっても、その人の育った土地や触れてきた文化の違いによって同じ言葉や言い回しに対しても受け取る内容が違うことはあり得ることだ。また、抽象的な言葉の定義は人それぞれになりがちで、意味を共有できていない場合が多い。加えて、その言語特有の言葉というものも存在する。翻訳の際にふさわしい言葉が無い場合、そもそもその言葉を必要とする場面がその言語の文化圏には無いということだ。この場合、言葉の意味を理解するためには丁寧な説明が必要になる。
■結論
しかし、言葉の背後にある文化のすべて知ることは不可能である。では、異なる他者、特に異なる文化圏で生き、異なる言語で考え・話している人と会話を通して理解を深めるためにはどうすれば良いのだろうか。その方法を考えることは、異なる相手への敬意をはらえる人間になるために必要なことだと考える。
■結論の吟味
以上の研究を遂行するため、早稲田大学教育学部英語英文学科に入学し、村田久美子教授の下で学びたい。
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