■議論の整理
2021年の実施を目指していた大学入学共通テストの二本柱であった、英語民間試験の活用と記述式問題の導入が双方ともに見送られることになった。2019年12月17日という、結論を先送りにする限界のタイミングで成された決定だった。共通テストのあり方の変更は、高校生にとって一大事だ。1点に泣くことがある一次試験が透明性のあるきちんとしたものであることを求めるのは当然だ。今回の共通テストや、過去を遡ればゆとり教育の導入とその中止など、教育を受ける主体である学生は常に大人の決定に振り回されてきた。
■問題発見
小学校、中学校という義務教育とその後の高等学校での教育は、学習指導要領で内容が定められている。その内容に沿って学ぶことは、国の求めた内容をただインプットしているだけではないだろうか。
■論証
教育は国家的に取り組まないといけないものである。小学生の英語必修化や高校でのプログラミング必修化など、現在進められている学習指導要領の改定においても、現代社会に必要な力を身につけさせることを国家が求めていることが伺える。教育は、国家が国にとって有用な人材を育てるための手段なのだろうか。国の発展のために学生が学ぶことが、国の技術発展のために必要なことは想像できるが、学びとは本来自分自身のためではないのか。学びを手段にすることは、学びに対する正しい姿勢なのだろうか。
■結論
教育する者とされる者の関係性があってこそなされる教育もあるだろう。しかしその際、教育する者の望む形に相手を近づけるために学びを手段にしても良いのだろうか。教育が何のためにあり、教育に携わる者がどのような立場であるべきなのか、考えていきたい。
■結論の吟味
以上の理由で、早稲田大学教育学部教育学科教育学専修に入学し、坂倉裕治教授の下で学ぶことを強く希望する。
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