■議論の整理
「光(リュミエール)あれ」と叫ばれた結果、世界はできた。その光を扱う視覚芸術として、映画が存在し、映画を見ることは信仰することであるとも考えるシネフィルもいまだに多く存在している。光の明滅とともに、一定のリズムで映写される映像には、私たちを恍惚の中に誘い込む何かがある。
■問題の発見
カメラは機械だ。しかし、カメラは私たちの目を超えている。私たちの目は実は見たいものしか見ていない。むしろすべてのものを等価に見ているとしたら、私たちの認識能力はすぐ飽和状態になって、頭がくるってしまうに違いない。私たちは見ていない、認識したいものだけを認識しているだけだ。生存に有利な方に、私たちは見たり見なかったりする。
■論証
一方で、カメラは等しくすべてを捉えてしまう。カメラ(キャメラ)は私たちが普段何気なく見過ごしてしまう、木々のざわめきや、太陽のそよぐ風、たなびく旗を等価に映し出す。世界はこんなにも美しかったのだと、私たちは思い出し、世界に祈る。これが映画を愛するシネフィルの理屈だと言えるだろう。
■結論
では、光をあやつるキャメラが光を捉えたら事態はどうなるだろうか。キャメラは等しくものを捉えるはずだが、光は何も映し出さない。光はただのまぶしさであり、明滅する映画を一掃する、ゼロ地点だ。光あれとして世界は生まれたが、その間に影がないと映画は生まれないし、もしかしたら私たちも生まれなかったかもしれない。
■結論の吟味
映画の中に出てくる光をどのように考えるべきか。北野武の映画に出てくる光の明滅をプルーストのイメージ論と合わせて「光の間歇」と分析した論考もあるように、光を必要とする映画が光をすべて引き寄せてしまったら、その光の芸術はどうなるのか。光は世界の生誕の比喩でもあり、映画を形作る物質だ。このような議論への誘惑に誘われながらも、映画と光というテーマを、多くのジャンルとの横断的な文化研究に展開してみたいと考え、貴学への入学を希望する。
※1三浦哲哉『映画とは何か フランス映画思想史』筑摩書房 2015
※2武田潔「光の間歇――プルーストと映画の交わりを問い直す――」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』59 2013
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