- 議論の整理
近年の研究によって、近世ヨーロッパ世界が不寛容的性格を持つ一方で近世イスラーム世界が寛容的性格を持っていたという単純な図式は再考を求められるようになった。このような寛容についての議論は主に信仰をテーマになされるが、16世紀から17世紀ごろにかけてのフランス宗教戦争を再検討することは、宗教における寛容と不寛容がどのように表出していたのかを理解する手掛かりになる。それは、ナショナリズムが先鋭化しつつある不寛容な現代社会を実践的な次元で捉える上で大きな意義を持つ。
- 問題発見
フランスにおける宗教的寛容政策の最も代表的な例はアンリ4世によって出されたナントの王令であろう。これまでの研究では、この王令に対する教皇庁の態度は不寛容の牙城としてフランス王権との宥和政策を非難するものであったと考えられてきたが、坂野教授は教皇庁の態度は異端への闘争であったという視点で短絡的に理解されるものではなく、国際社会における教皇庁の影響力を維持する為の様々な政治的思惑が交錯した重層的なものであったと論じている。それでは、このような政治的力学を含めた視点でのフランス・カトリシズムの歴史的推移をさらに検討することはできないだろうか。
- 論証
先述の論文は、当時の教皇であったクレメンス8世が一貫して信仰の統一の理念を原則としており、その原則に反するナントの王令を認めない姿勢を取っていながらこの王令を認めるという矛盾した論理を指摘している。そしてこの矛盾が成立した背景に、王権との対立を回避するという長期的な視点での教会の利益を優先させた政治的な戦略があったと論じている。結果としてこの判断はフランス国内におけるガリカニズム確立へ繋がっていくのであるが、本研究ではこの一連の流れを教皇庁の政治史という観点で概観したいと考えている。
- 結論
上記研究を行うにあたって、これまで貴学において近世ヨーロッパ史について宗教をテーマに数多くの研究を行ってきた坂野教授のもとで学ぶことを強く希望する。
参考文献
坂野正則 (2003). 「16世紀後半におけるフランス寛容王令とローマ教皇庁-近年の研究から-」『藤女子大学キリスト教文化研究所紀要』 4, 63-71
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