- 議論の整理
様々な倫理的課題を抱える現代社会では絶対的な善悪の判断をつけることは困難であり、その判断は個々人に委ねられている。キリスト教的視座から人間とその行為の倫理性を問う倫理神学においても、行為中心の倫理性を議論していた伝統的な在り方から、その行為の主体である人格の倫理性を問うことに重きを置くようになった。そのような新しい倫理神学において重視されるのは、人格にも影響を与える生の基本姿勢を決定するような決断、すなわち根本的決断である。
- 問題発見
浜口はこのテーマに関して、根本的決断は伝統的には自己の究極目的である神に対する人間の自由な決定であるとして定義されてきたと論じている。すなわちそれは個人に向けられた神の呼びかけに対して肯定的あるいは否定的に答えるのかという選択であるということもできる。私がここで重要だと考えるのは究極存在である神さえも人間の自由意思を尊重し、決断を行う余地を与えているということである。たとえそれが破滅へ向かう判断であったとしてもそれを決断する自由を与えるという価値観は倫理的行為の実践にどのように影響を与えてきたのだろうか。
- 論証
人間の自由意志の尊重こそが神の愛の一つの形であると言える。神の望むことを行うという根本的決断はいわば神に対する全人格の譲渡であると考えることも出来るが、それは自己を開き他者の自由意志を尊重するという視点に発展していく。これこそが倫理的実践の基盤となるのではないかと考えられる。そこで、本研究では神による自由意志の尊重という視点から倫理神学を考察していきたい。
- 結論
この研究を通じて、キリスト教的ヒューマニズムを身につけた自立した一個人としての自己を確立していきたいと考えている。
- 結論の吟味
上記研究を行うにあたって、これまで貴学において倫理神学という観点から様々な社会問題を論じてきた竹内教授のもとで学ぶことを強く希望する。
参考文献
浜口吉隆 (2006) 「倫理神学における「根本的選択・決断」」『南山神学』 29, 45-70
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