設問
次の文を読み、これまでの生活経験をふまえ、あなたの考えを述べなさい(800字以内)。
議論の整理→「顔色を読む」ことは日本独特の習慣である
本文で述べられているように日本語には「顔色を読む」「人の痛みを感じる」といった表現がある。これは、論理的に議論をする西欧社会と比べると、日本社会の独特な価値観であるといえる。外国から来た友人の多くは「顔色を読む」「空気を読む」ことが非常に難しいという。
問題発見→それにはどのような意味があるのか?
それでは「顔色を読むこと」は日本でどのような意味を持っているのだろうか。
論証→西欧社会と日本社会
私は幼少期、ドイツで育った。その後日本に帰国したときに真っ先につまずいたのが「顔色を読む」ことだった。なぜ口頭で説明せずに、相手の表情や雰囲気、一瞬のニュアンスなどから感情や意見を推察しなくてはいけないのか、はじめは全く理解できなかった。他者の感情や意見を察することは、本当の意味では不可能なのだから、互いの意見を議論したほうが効率的だと思っていた。しかし次第に、「顔色を読む」ことで多くの衝突が避けられ、物事が潤滑に進んでいくことを実感した。たとえば議論をする際、ドイツでは必ず自分の意見を根拠とともに述べる必要がある。その上で議論をして結論に至るので、合理的ではあるが時間がかかるし、意見の通らない者も出てくる。しかし「顔色を読む」ことができれば、議論の大半は割愛され、意見を明確に否定されることもない。つまり「顔色を読む」という文化によって、全員の面子が保たれると同時に、物事を全員が快く進めやすい状況が生まれるのだ。当然のことながら「顔色を読める」ようになるには、ある程度その社会に馴染み、経験を積んでいる必要がある。その点、ほかの文化圏から来た人間には理解しにくい・入りにくい壁となってしまうこともあるだろう。
解決策or結論→「顔色を読む」ことで不要な争いを避けることができる
しかし、日本は島国という限定された土地でもあることから、不要な争いは避け、相手を尊重しあうために「顔色を読む」という文化が発展したのではないだろうか。
解決策or結論の吟味→結論を吟味する
これは一見非合理的だが、他方で非常に高度に発達した社会の処世術であるということができる。(791字)
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