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問題発見:功利性の原理は正しい原理となりうるのか
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議論の整理:功利性の原理の説明
この文章から読み取れる哲学的問いとしては、功利性の原理は、道徳的な行為を指示する正しい原理でありうるかという問いが挙げられる。ここでベンサムが提示している「功利性の原理」とは、快楽の量を最大化し、苦痛の量を最小化するように行為せよという原理である。例えば、動物の肉を食べることは、動物という存在者の苦痛を増やす行為である。したがって、功利性の原理に従えば、私たちは菜食主義者になるべきである。あるいは、高価な車を買うことはたった一人の人間の欲求を満足させるにすぎないが、その車を買うための金を寄付すれば、多くの貧しい人々を救うことができる。したがって、功利性の原理に従えば、私たちは贅沢な暮らしを捨てて、自分の稼いだお金の多くを、寄付すべきである。確かに苦痛と快楽を基準にした功利性の原理を採用した場合、こうした行為は端的によいものと見える。
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論証: 功利性の原理の欠点の明示
しかし、次のような例はどうだろうか。崖から落ちそうになっている二人の人間がいて、一人は、自分の妻である。そしてもう一人は見ず知らずの他人である。だが後者は優秀な科学者で多くの人々を救う新薬を開発できるかもしれない。そして、さまざまな事情によって、妻か科学者の一方しか救うことができないとする。この場合、功利性の原理に従えば、私たちは、自分との親密な関係を築いている人(妻)を見捨てて、多くの人々を救うかもしれない赤の他人(科学者)を救うべきである。
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結論:功利性の原理は正しい原理ではない
このように、功利性の原理に従えば、私たちの人生に意味を与える多くのものを放棄しなければならなくなる。しかしそのような要求は過度なものであり、私たちの誰一人としてそれが指示する行為のすべてを実現しようとは真剣に思わないだろう。したがって、功利性の原理は、道徳的行為を指示する正しい原理ではありえない。
この文章から読み取れる哲学的問いとしては、功利性の原理は、道徳的な行為を指示する正しい原理でありうるかという問いが挙げられる。ここでベンサムが提示している「功利性の原理」とは、快楽の量を最大化し、苦痛の量を最小化するように行為せよという原理である。例えば、動物の肉を食べることは、動物という存在者の苦痛を増やす行為である。したがって、功利性の原理に従えば、私たちは菜食主義者になるべきである。あるいは、高価な車を買うことはたった一人の人間の欲求を満足させるにすぎないが、その車を買うための金を寄付すれば、多くの貧しい人々を救うことができる。したがって、功利性の原理に従えば、私たちは贅沢な暮らしを捨てて、自分の稼いだお金の多くを、寄付すべきである。確かに苦痛と快楽を基準にした功利性の原理を採用した場合、こうした行為は端的によいものと見える。
しかし、次のような例はどうだろうか。崖から落ちそうになっている二人の人間がいて、一人は、自分の妻である。そしてもう一人は見ず知らずの他人である。だが後者は優秀な科学者で多くの人々を救う新薬を開発できるかもしれない。そして、さまざまな事情によって、妻か科学者の一方しか救うことができないとする。この場合、功利性の原理に従えば、私たちは、自分との親密な関係を築いている人(妻)を見捨てて、多くの人々を救うかもしれない赤の他人(科学者)を救うべきである。
このように、功利性の原理に従えば、私たちの人生に意味を与える多くのものを放棄しなければならなくなる。しかしそのような要求は過度なものであり、私たちの誰一人としてそれが指示する行為のすべてを実現しようとは真剣に思わないだろう。したがって、功利性の原理は、道徳的行為を指示する正しい原理ではありえない。(744文字)
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