■議論の整理
原子化・私化・個人化とも、「個人析出」の下位概念である。簡単にふりかえれば、原子化においては、制度的側面では企業共同体に代表されるような「集団」の存在が前提となっていた。そして、原子化された個人が感じる不安も、こうした「集団」から分離されるのではないかという不安、つまり 「分離不安」として特徴づけられた。
次に、私化においては、原子化と同じく「集団」の存在が前提となっているものの、このような「集団」から人びとが距離をとり、また、消費社会化によって個性が多元化していき「関 係」が流動化していく状況に焦点があてられていた。
そして、私化された個人が感じる不安も、こうした「関 係」のなかで自分が他者から承認されていないのではないかという不安、つまり「関係不安」として特徴づけられた。そして個人化においては、制度的側面では、「集団」の凝集力が急速に低下する状況に焦点があてられている。
例えば、個人化された個人が感じる不安も、もはや自分を包摂してくれる「集団」や「関係」そのものが 存在していないのではないかという不安、つまり存在不安によって特徴づけられた。一般的に、このような論じ方においては、であるからこそ、人間存在にとっての「集団」や「関係」の重要性、「つながり」や「紳」の本質的意義を再認識する必要があるとの結論が導きだされることが多い。
一方、原子化、私化から個人化へといたる過程、 あるいは、分離不安、関係不安から存在不安へといたる社会過程を、社会関係が「ルーティーン化」されている度合いが低下していく過程としてとらえる見方もある (*1)。
■問題発見
ここで、社会関係の「ルーティーン化」という視点で、個人が感じるに対する課題について改めて考えてみたい。
■論証
存在論的不安の対概念である「存在論的安心」について、相対的に安心な日々の生活環境を作りあげることは、 存在論的安心の維持にとって非常に重要なことである。言い換えれば、存在論的安心は何よりもルーティーンそのものによって維持されている。
「ルーティーン」とは、今日の生活が昨日とまた同じようなものとしてあり、明日の生活がまた今日と同じようにあるという感覚を支える、定型化された習慣やライフスタイルである。ルーティーンを通じて「いつもと同じ」という感覚を持てることが、人びとを存在論的不安から遠ざける。「集団」や「関係」が流動化していくという過程は、言い換えれば、日々の生活がルーティーン化されている度合いが低下していく、ということを意味している。
ルーティーンが、人生の意味とは何か、幸福とは何か、善悪とは何かといった究極的な問題に答えをあたえてくれるわけではない。ただ、そうしたルーティーン化された生活がベースとなって、私たちがさまざまな意味を、人生において少なくとも求めることそのものが可能になる、ということであれるわけではない。ただ、そうしたルーティーン化された生活がベースとなって、たとえばベーシック・インカムのように、基本的な安心感・安定感を底支えするような社会的仕組みを構想する必要がある。
人生の有限性を知ってはいても、普段の日常のなかでふと感じることのできる永遠の 「感覚」をもたらすのが先に見たルーティーン化である。こうしたルーティーン化された状態を個々人の生活にもたらすことができる最小限の社会的な仕組みを考案すべきである(*1)。
■結論
そこで、個人化から来る不安感に対して有効と考えられる「ルーティーン化」を個人の生活にもたらすことができるような社会制度を考案し、不安感に対する「ルーティーン化」の有用性について研究したいと考えている。
■結論の吟味
上述の研究を遂行するため,貴学法学部政治学科に入学し,現代社会理論や社会学史、死の社会学を専門に研究している澤井敦教授の研究会に入会することを強く希望する。
※1澤井敦(2011)「原子化・私化・個人化 : 社会不安をめぐる三つの概念」法學研究 : 法律・政治・社会 (Journal of law, politics, and sociology). Vol.84, No.2 (2011. 2) ,p.221- 278
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