慶應義塾大学 法学部政治学科 FIT入試 志望理由書 提出例(小川原 正道研究会向け)

■議論の整理

福沢諭吉が勲章、爵位、位階といった栄典を嫌い、生涯これを受けなかったことは、よく知られている。こうしたスタンスは、生涯一貫していた。明治二十七年に日清戦争が勃発した際、福沢は軍資醸金を呼びかけ、自らも一万円を醸出しているが、これに対する褒賞として勲章が授与されるという風聞がたつと、知人に対して笑い飛ばしている。 明治三十一年に脳溢血で倒れ、一時危篤に陥った際には、大隈重信内閣が授爵の恩典を与えようと企画したが、その旨が福沢家に伝えられると、家族と塾員長老とで相談して辞退することとなり、後に回復した福沢はこれを聞いて、よくも辞退してくれたと喜んだという。

自らの信念として栄典を避け、これを批判することが、すなわち栄典の制度そのものの廃止論に直結するわけではない。福沢は、最晩年に到るまで、華族に対する根深い失望と、その利用価値を模索する執念を維持し続けた。

また、帝国議会開会を目前に控えた明治二十二年四月十六日、『時事新報』は社説「華族と士族」を掲げ、華族を 「全く封建時代の遺物」と断じた上で、華族の非常識なふるまいや散財の可能性に懸念を示し、「華族の運命は之れより以降唯下へ下へと傾くのみ」と「予言」した。しかしまた、絶望感を抱きながらも、なお華族の廃止は主張せず、その活用を論じ続けたところに、福沢の華族論の特色がある。それは、同時に、財産があるうちに歴史的な名望を生かして教育や軍事、殖産興業に貢献することを求めていることに通じる(*1)。

 

■問題発見

ここで、福沢の華族に対する失望とその役割の捉え方に対する課題について改めて考えてみたい。

 

■論証

福沢は華族が帝室の藩塀として地位や財産を活用し、「国家無二の重宝」として機能してほしいという期待の実現は難しく、「時に又絶念もしたる事あり」と告白した上で、「新華族の人々丈けも相変わらず政治上に社会上に故の元気を喪はずして世故人情をも忘却せず兼て帝室に藩扉して」ほしいと期待した。

「福沢の華族利用論の裏側」には華族批判の「底意」があった。福沢の栄典忌避は徹底しており、またその華族批判の舌鋒は鋭く、それは彼等の学力不足や遊蕩に対する危機感や失望によって裏付けられていた。華族自身の修学や教育への投資は、福沢の理想であると同時に明治政府の方針であり、中津、三田、延岡ではこれに積極的に応じる姿勢が見て取れた。福沢自身、それぞれの学校建設に深く関わり、これを積極的に評価する一方、華族一般については不信感を強めていく。背景のひとつとなったのは、慶慮義塾に学んだ華族たちの成績不振であった。

しかし、華族制度そのものの廃止を求めず、存続と活用を唱えたところには、福沢なりのリアリズムが読み取れるとともに、華族に対する一定の評価が影響していた可能性が高い。華族社会のマジョリティはたしかに批判すべき現状にあったけれども、産業振興や家計維持のため旧領地に帰郷した諸侯華族は少なくなく、特に内藤政挙は位記返 上を申し出た上に、慶藤義塾を模した学校の建設に取り組み、福沢の意を受けて帰郷した後は、自らこれを主管した。

したがって、福沢の華族批判から活用に変わった経緯を踏まえ、華族の歴史的名望を重んじる以上、今後、華族と皇室について論じるべきである。 (*1)。

 

■結論

そこで、福沢が日本政治思想に与えた影響を踏まえ、福沢の華族に対する思想から現代の皇室と日本の政治体系の役割について研究したいと考えている。

 

■結論の吟味

上述の研究を遂行するため,貴学法学部政治学科に入学し,日本政治思想史や福沢諭吉を専門に研究している小川原正道教授の研究会に入会することを強く希望する。

 

※1小川原正道(2009)「福沢諭吉の華族批判 : その思想的展開と華族門下生の反応について」法學研究 : 法律・政治・社会 (Journal of law, politics, and sociology). Vol.82, No.10 (2009. 10) ,p.1- 34

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