慶應義塾大学 法学部政治学科 FIT入試 志望理由書 提出例(細谷 雄一研究会向け)

■議論の整理論

1948年3月16日に、パリではアーネスト・ベヴィン英外相とジョルジュ・ビドー仏外相の間で、英仏外相会談が行われた。3月17日、ベルギーのブリュッセルで、イギリス、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの西欧五ヵ国による共同防衛のための条約が締結された。ブリュッセル条約である。このブリュッセル条約調印によって、加盟五ヵ国は「西欧同盟」としての防衛態勢を構築することになる。この「西欧同盟」の構想を設計した中心人物は、イギリス外交官のグラッドウィン・ジェブであった。ジェブはこのとき外務省で事務次官補として、ブリュッセル条約成立に深く関わっており、西欧諸国間で集団防衛体制を構築する上でのイニシアティブを発揮した。「西欧同盟」は、ジェブとベヴィンの共同作業の成果といえる。条約調印後は、ジェブはブリュッセル条約常設委員会にイギリス代表として参加して、軍事機構化へ向けて重要な貢献をなした。

同時に、ジェブは、国連という普遍主義的な国際機構と、ブリュッセル条約という地域主義的な機構という二つを相互補完的に組み合わせることによって、イギリスの安全と国際的な平和を確保しようと考えた。ジェブは、「国際連合」創設と「西欧同盟」創設という二つの政策過程に深く関わり、想像力溢れるイニシアティブを発揮した(*1)。

 

■問題発見

ここで,イギリス政府が「国際連合」創設と「西欧同盟」創設に動いた際の動機に対する課題について改めて考えてみたい。

 

■論証

地域主義と普遍主義という、この二つをそれぞれ個別的に論じるのではなく、総合的に理解することによって当時のイギリス政府の考えを探る必要がある。まず、動機については、アメリカよりもはるかに小さな存在となっていたイギリスの場合、最初に行動を起こさなければアメリカやソ連がその圧倒的な国力に基づいて戦後秩序を排他的に形成していくと考えていた。

1944年から、ワシントンDC郊外のダンバートン・オークス邸で国連創設へ向けた 「四大国」の会合が開催される。この会談は、前半に英米ソの三大国、そして後半には英米中の三大国と、その前年の1943年のテヘラン首脳会議と、カイロ首脳会議と同様の形式で行われることになった。同年の夏には、イギリス政府としての国連構想の骨格は明確となっていた。しかしながら、イギリス政府内では、イーデン自らを含めて、ソ連との協調を前提にした国連の枠組みが機能しなくなることも想定していた。イギリスは国連が機能しなくなった場合を想定して、ダフ・クーパー大使が提唱した「西欧ブロック」構想を検討する作業を並行して進めており、地域主義的な安全保障枠組みが実現可能となるような措置を求めていた。したがって、この時点でのイギリス政府は、普遍主義的な機構としての国連と、地域主義的な「西欧ブロック」構想という二つの戦後構想を、矛盾するものとしてではなく、むしろ相互補完的なものとして組み合わせて構想していた。イーデン外相やジェブ局長は、この二つの構想のいずれもが重要であることを認識し、それが相互補完的なものとなるように検討する上での中心的な役割を担ったのである。

現代の世界でも、普遍主義的機構と地域主義的機構はそのいずれもが必要だと想定されている。したがって、その起源を考える上で、イギリス外交に注目することには、大きな意義があるため、今後も引き続き検討すべきである(*1)。

 

■結論

そこで,イギリス外交の分析を通じて、普遍主義的機構と地域主義的機構を両立した政治制度について研究したいと考えている。

 

■結論の吟味

上述の研究を遂行するため,貴学法学部政治学科に入学し,外交史や国際政治学を専門に研究している細谷雄一教授の研究会に入会することを強く希望する。

 

※1細谷雄一(2019)「国連創設とイギリス外交 : 「国際連合」と「西欧連合」の狭間で」法學研究 : 法律・政治・社会 (Journal of law, politics, and sociology). Vol.92, No.1 (2019. 1) ,p.47- 71

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